13  「そしてもしもお前たちが隠されて意味で聞かなければ、お前たちの魂は、傲慢を前にして泣く[1]」。聞く人たちのなかには、「隠された意味で」聞く人たちと、聞きはしますが「隠れて」聞かない人たちがおります。ところで、「隠された意味で」聞くとは、どういうことでしょうか。それは、「しかしわたしたちは、神秘のうちに隠されていた神の知恵、神が代々に先立ってわたしたちの栄光のためにあらかじめ定めておられた神の知恵を語る[2]」ということに他ならないでしょう。さらに他のところでは「神の業の多くは隠れたところにある[3]」と言われております。わたしたちが律法を聞く場合に、わたしは、「隠された意味で」聞くか、「隠された意味で」聞かないかのいずれかです。ユダヤ人は、律法を「隠された意味で」聞きませんでした。それゆえユダヤ人は、外見上の割礼を受けるのです。ユダヤ人は、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、また肉における割礼が割礼なのではない[4]」ということを知らないのです。しかし割礼を「隠された意味で」聞く人は、「隠れたところで[5]」割礼を受けるのです。過越についての律法の規定を「隠された意味で」聞く人は、子羊キリストを食べるのです    たしかに「わたしたちの過越の子羊キリストは、屠られました[6]    そして、その人は、み言葉の肉がどのようなものであるかを知っており、み言葉の肉が「まことの食べ物である[7]」ことを知っていますので、そのみ言葉の肉に与るのです。なぜならその人は、「隠された意味で」過越を聞くからです。そしてこの大多数のユダヤ人が[8]主イエスを殺し、今日でもイエスの殺害の責めを受けるとすれば[9]、それは彼らが律法や預言書を「隠された意味で」聞かなかったからです。もしもあなたが種なしパンの祭りについて読むとすれば、「隠された意味で」聞くこともできますし、その掟を明白な意味で聞くこともできます。過越祭が近づいてまいりましたので[10]、あなたがたの内でこの祝う種なしパンの祭りを身体的な祭として祝う人がいれば、その人たちは、次のように言う掟を聞いていないのです。こうあります。「もしもお前たちが隠された意味で聞かないなら、お前たちの魂は泣く[11]」と。また安息日ついても、預言者の言うことを聞かない婦人たちは、「隠された意味で」聞くのではなく、明白な意味で聞くのです。彼女たちは、安息の日に沐浴をせず[12]、キリストがまだ訪れていないかのように、「卑屈で力のない律法の初歩[13]」へと戻っていきます。キリストは、わたしたちを完成させ、律法の初歩から福音的完全性へとわたしたちを移してくれるのです。

それゆえ、わたしたちは、律法と預言者(の書)を読むとき、次のように言う預言の言葉に決して陥らないように注意しましょう。「もしもお前たちが隠された意味で聞かないなら、お前たちの魂は、傲慢を前にして泣く[14]」と。あなたがた(ご婦人たち)[15]が、イエス・キリストの到来以後のいの日を知らずにユダヤ教の断食を守っているとすれば、あなたがたは、贖いを「隠された意味で」聞かず、明白な意味で聞いただけなのです。実際、贖いを「隠された意味で」聞くことは、どのようにして「神が」イエスを、「わたしたちの罪のための贖いとして差し出された[16]」か、そして「彼が私たちのためばかりでなく、世界全体のための贖いである[17]」ことを聞き分けること<なのです>。たとい福音書のたとえ話が読み聞かされても、聴き手が外から来た人であれば、その人は「隠された意味で」それらのたとえ話を聞くことはないでしょう。しかし聴き手が使徒か、あるいはイエスの「家のなかに[18]」入ってきた人たちの一人で、イエスに近づき、たとえ話の不明瞭なところについて尋ねる人であれば、イエスがそのたとえ話を解釈してくださり、福音の聴き手であるその人の方は、「隠された意味で」イエスの話を聞く者となり、彼の魂は泣くことはないでしょう。なぜなら「隠された意味で」聞かない人たちの魂がなくからです。

(主が)「お前たちは、隠されて意味で聞かなければ泣くであろう」とは言わずに、「お前たちの魂は泣くであろう[19]」と言ったことは、まことに驚くべきことであります。嘆き悲しむ魂だけに属する何らかの嘆きが存在するのです。そしておそらく救い主はその嘆きをわたしたちに教えようとして、こう言われているのでしょう。「そこには嘆きがあるだろう[20]」と。また救い主が「今、笑っているあなたがたは禍である。あなたがたは、やがて悲しみ泣くからである[21]」と言う場合、救い主は、預言者がこの個所で次のように言って脅かしているあの涙について語っているのです。「もしもお前たちが隠された意味で聞かなければ、前たちの魂は高慢を前にして泣く[22]」――すなわち、あなたがたが高慢になれば、あなたがたは泣く――「そしてお前たちの目は涙を流す。主の群れが散らされたからだ[23]」と、預言者は言っております。もしもだれかが、今のユダヤ人の状態を見て、それをかつての状態と比べるなら、どうして「主の群れが散らされた」かがわかるでしょう。たしかにこの群れは、かつて主の群れでした。しかし「彼らはみずからを相応しくないものとして裁いたので、み言葉は諸国の民に向かいました」[24]。ですからもしもこの種の群れが散らされたとすれば、その本性に反して先祖たちの「立派なオリーブ[25]」に接ぎ木された「野生のオリーブ[26]」であるわたしたちもまた、この「主の群れ」がいつか散らされるのではないかと心配すべきです。救い主の言われた言葉によれば、この群れも散らされることに定めにあるのです。それは「不法が増えて、多くの人の愛が冷える[27]」ときです。このみ言葉は、どのような人たちについて言っているのでしょうか。キリスト者と言われる人たちについて、「多くの人たちの愛は冷えるであろう」という言葉が言われたのでしょうか。また、「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか[28]」というみ言葉は、どのような人たちについてのものでしょうか。わたしたちについてではないでしょうか。ですからわたしたちは、この神の群れが日毎に改善され、聖なるものとなり、世話を受けるように、そしてすべての破壊がわたしたちの魂から遠き、わたしたちがキリスト・イエスにおいて完全な者となるように、注意してすべてを行いましょう。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[29]」。



[1] Jr.13,17.

[2] 1 Co.2,7.

[3] Si.16,21.

[4] Rm.2,28.

[5] Rm.2,29.

[6] 1 Co.5,7.

[7] Jn.6,55.

[8] Cf. Hom.Lv.II(cité dans la Philocalie); ibid V etc.

[9] Cf.Justin, Dial.17,I,3;131,2; Tertullien, Scorp.10.

[10] Phrase calquée sur Jn 2,13.

[11] Jr.13,17.

[12] InPs.118,38 (SC 189, p.256, 1-3).

[13] Cf.Ga.4,9.

[14] Jr.13,17.

[15] この節はギリシャ語では、女性形の分詞が使用されているので「ご婦人たち」という言葉を添えておいた。多くの女性たちが、オリゲネスの教話を聞きに来ていて、特に目立ったのだろうか。

[16] Cf.Rm.3,25.

[17] 1 Jn.2,2.

[18] Mt.13,36.

[19] Jr.13,17.

[20] Mt.13,36.

[21] Lc.6,25.

[22] Jr.13,17.

[23] Jr.13,17.

[24] Cf.Ac.13,46.

[25] Cf.Rm.11,17.24.

[26] Rm.11,17.

[27] Mt.24,12.

[28] Lc.18,8.

[29] 1 P.4,11.

 

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