「わたしはかれらが滅んでも、悔やまず、惜しまず、憐れまない[1]」。異端に属する人たちは、この言葉を(正統派のキリスト教の)攻撃の足がかりにし、こう言っています。「あなたは、創造主がどのような方か、預言者たちの神がどのような方かおわかりか。かれは、『わたしはかれらが滅んでも、惜しまず、憐れまない』と言っている。どうしてこんな神が、善い神でありえようか」と。これに対してわたしが、共通善のために[2]憐れみを持たない審判者がまた善い意味で憐れみを持たない判事でもあることを示す例を挙げることができれば、この例によってわたしは、神が多くの人を惜しむがゆえに一人の人を惜しまないということを示し、(異端者を)説得することがっできるでしょう。また、身体全体を惜しむがゆえに、身体の一部を惜しまない医者の例を挙げてみることにしましょう。

たとえば、裁判官の務めが次のものであるとしましょう。平和を作り出し、かれの下にある民に有益なものを備えること。そして見目麗しく若いある人殺しが前に引き出されてきたとしましょう。そしてその母が引き出され、裁判官に憐れみを誘う言葉をかけ、自分の高齢を哀れんで欲しいと訴えていたとしましょう。また、この取るに足らぬ男の妻が憐れみを求め、かれの回りに子どもたちが集まり哀願していたとしましょう。これらのことを前にして、何が公共の利益にかなっているでしょうか。裁判官は憐れも催すのでしょうか。それとも憐れみを感じないのでしょうか。もしもそれらのことで憐れみを受けるなら、その男は再び過ちを犯すでしょう。しかし憐れみを受けないなら、その男は殺されますが、治安[3]はよりよいものとなります。これと同じように神も、もしも罪人を惜しみ、かれを憐れみ同情して、かれを罰しないようにするなら、いったいだれが、悪に駆り立てられないでしょうか。刑罰の恐怖があるからこそ罪を犯すのを控えていた下劣な者たちのいったいだれが、悪に駆り立てられず、悪化しないのでしょうか。そのようなことは、諸教会のなかにも起こっていることを見ることができます。ある人が罪を犯し、その罪の後で、聖体拝領[4]を求めました。もしもそのひとがすぐに憐れみを受けたなら、公の人々は[5]害を受け、他の人たちによる罪が増加することでしょう。しかし裁判官が無慈悲でもなく残酷でもなく、一人(の罪人)を気遣い、またその人以上に多くの人々を気遣いながら、その人の聖体拝領とその人の罪の赦免によって公の人々に生じるであろう損害を思慮深く考察するなら、明らかに裁判官は、多くの人々を救うためにその一人の罪人を追放させるでしょう。

またどうか、医者のこともお考えください。どのようにして医者は、切断の必要な人を惜しんで切断を差し控え、焼灼療法に伴う苦痛のゆえに<焼灼の必要のある>人を惜しんで焼灼を差し控えるのでしょうか。どのようにしたら病は増し、もっとひどくなるのでしょうか。しかし医者が、もっと果敢に切断や焼灼などに取り掛かる気であれば、かれは敢えて憐れみを示さず、焼灼を受ける人や切除を受ける人を憐れまないことに決めて、治療することでしょう[6]。同様に神も、一人に人間だけを配慮する[7]のではなく、宇宙全体を配慮しておられるのです。神は天にあるものも、地にあるものも、あらゆる所であらゆる時に取り計らっておられます。ですから神は、何が宇宙全体と存在するすべてのものに益となるのかをお考えになりますが、一つのものにもできる限りでその利益を図ります。しかし一つのものの利益が宇宙の損害になるようにはされません。そういうわけで「永遠の火[8]」が「用意された[9]」のであり、そういうわけで「地獄[10]」が用意されたわけですし、またそういうわけで「外の闇[11]」のようなものが存在するのです。そしてこれらは、罰せられる者のためにだけ必要とされるのではなく、何よりも共通善[12]のために必要とされるものなのです。



[1] Jr.13,14b.

[2] evpi. kalw/| tw/| koinw/|

[3] to. koino,n

[4] koinwni,a

[5] to. koino,n

[6] Cf. Philocalie, XXVII, 4-5 (SC 226, p.278 s.).

[7] oivkonomei/

[8] pu/r aivw,nion; cf.Mt.18,8; 25,41.

[9] Cf. Mt.25,41.

[10] ge,enna; cf. Mt.18,9.

[11] sko,toj evxw,teron

[12] to. koino,n

 

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