さて一つの節をひととおり粗描しましたから、また別の節が何をわたしたちに教えているかも見てみましょう。こうあります。「お前たちは聞け。そして耳を傾けよ。誇ってはならない。主が語られたからだ。わたしたちの神なる主に栄光を帰せよ、暗くなる前に、お前たちの足が暗闇の山々でく前に。そしておまえたちは光を待ち望め。そこには死の影があり、暗闇の山々は、暗黒に変わる。あなたがたが密かに聞かなければ、わたしの魂は、お前たちの傲慢の前にして泣く。お前たちの目は涙を流す。なぜなら主の群れが散らされたからだ[1]」。(主は)同じ人たちが聞き、耳を傾けるようにお望みになり、かれらが聞くだけでは、あるいは耳を傾けるだけでは、満足されません。それで神は、「お前たちは聞け。そして耳を傾けよ」と言われるのです。その次に神は、誇ってはならないとかれらに命じ、為すべきことが何であるかを教えられます。では、「聞く[2]」とは、どういうことでしょうか。「耳を傾ける[3]」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは言葉そのものから、理解してみましょう。「耳を傾けよ」とは、耳の中に受け入れよ[4]、ということ[5]。「聞け」とは、もしもそれが「耳を傾けよと」と対比されて言われているのなら、たぶん、悟性の中に受け入れよ[6]、ということでしょう。そして聖書のなかで言われている事柄のなかには、語られざるより神秘的なものもあれば、理解力のある人にすぐに役立つものもあるわけですから、「お前たちは聞け」という言葉は、語られざる事柄について言われ、「お前たちは耳を傾けよ」という言葉は、ただちに役立ち、聞く人に解釈なしで利益を与えることのできる事柄について言われていると、わたしは思うのです。

ですからもしもわたしたちが、()書全体を検討しするなら、わたしたちは「認証された両替商[7]」となって、「あなたがたはこれこれのことを『聞きなさい』、そしてこれこれのことを『耳を傾けなさい』」と言うようになるでしょう。そしてもしもわたしたちが、聞き、耳を傾ければ、(神は)わたしたちに、「誇ってはならない[8]」とお命じになるでしょう。なぜなら「自分自身を高める者はみな、ひくめられる[9]」からです。救い主もまた、「あなたがたはわたしから、『わたしの心が柔和であり謙遜である』ことを学びなさい。そうすればあなたがたは、あなたがたの心に安らぎを見出すだろう[10]」と言うことによって、わたしたちに高ぶらないように教えています。それはつまり、わたしたちのなかには、他の人間的な諸悪と並んで、この罪が存在するということなのです。わたしたちはある時には、いささかでも誇ってはならないことのために、まったく理不尽にも高ぶり、またある時には、誇る正当な理由があって確信を持って誇ることがあります。しかし前者の場合の高ぶりは、健全なものであるとはまったく言えません。



[1] Jr.13,15-17.

[2] avkou/sai

[3] evnwti,sasqai

[4] eivj w=ta de,xasqe

[5] Cf. De orat. 27, 6 (GCS II, 367).

[6] eivj th.n dia,noian de,xasqe

[7] Cf.Pistis Sophia, 134 (GCS XLV [XIII], p.228, 11); Clément d’Alexandrie, Strom.I, xxviii, 177, 2.

[8] Jr.13,15.

[9] Lc.14,11; 18,14.

[10] Mt.11,29.

 

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