わたしの申し上げていることは、次のようにすれば明瞭になるでしょう。自分たちが支配者の子であるとか、世俗的に高位の家柄の出身者であるということで、誇っている人たちがおります。このような人たちは、自分から選び取ったのではないどうでもよい事柄で誇っていますが、自分たちを高ぶらせるに足る正当な理由を持っているわけではございません。また、人々を殺す権限を持っていることで、誇る人たちもおれば、人々の頭を切り落とせるまでに昇進したようなことで、誇っている人たちもおります。そのような人たちの「栄光は、かれらの恥辱のなかに[1]」あるのです。また他の人たちは、富のゆえに、ただし真実の富のゆえにではなく、この世の富のゆえに誇っているます。また他の人たちは、たとえば立派な家を持っているとか、たくさんの土地を持っているとかで誇っています。これらの事柄のどれ一つとして、考察に値するものはありません。そのようなことで誇ってはなりません。しかち誇るに値するもっともらしい理由があるのは次の場合でしょう。自分が賢いということで誇るとき、もうこの十年来アフロディテーの呪縛[2]に触れていない、あるいは子どものときから触れたことがないということを自覚して誇るとき、さらには、キリストのゆえに縄目を負ったゆえに誇るときです。ここに、人が正当に誇るもっともらしい理由があると考えられますが、しかし真の理由と比べてみますと、人がこれらの事柄で正当に誇ることにはならないのであります。

このようにこれらの事柄でも、正当に誇ることはできないのです。パウロは、みずから誇る理由を持っていました:「幻[3]」のゆえに、「幻視[4]」のゆえに、「不思議としるし[5]」のゆえに、キリストのために忍んだ労苦のゆえに、「キリストの名が語られていないところに、教会のを据える熱意に駆られて[6]」、かれが創設した教会のゆえに。ある人たちがパウロの誇るのは当然だと考えるもっともらしい理由を挙げねばならないとすれば、これらすべてのことが、パウロの誇った理由でした。しかしながら、このような事柄に基づいて誇ることに危険がないわけではありませんから、慈しみ深いおん父は[7]、かれに幻や幻視をお与えになったのと同様に、かれが「誇らないように、サタンの使い」を恵みの取り分としてかれに与え、「かれに平手打ちを食わせます」。そしてパウロは、このことについて「主に三度呼ばわり」、かれが誇らないように摂理に従ってかれに与えられたサタンの使いが、かれから「離れるように」お願いいたしました[8]。そして主は、かれに答えました    パウロは、主の返事を受けるにふさわしい人です    主はかれに言っています。「お前はわたしの恵みで十分である。わたしの力は、弱さのなかで成し遂げられるからだ[9]」と。ですからどんな理由によっても誇ってはなりません。なぜなら聖書によりますと、誇ることには転落することが続くからです。こう書かれています。「破滅に先立って、人の心は高ぶり、栄光に先立って人の心はひくくなる[10]」と。

以上は、「お前たちは聞け。そして耳を傾けよ。誇ってはならない。主が語られたからだ」という言葉に関して述べてみたものです。



[1] Ph.3,19.

[2] avfridusi,wn desmou.j

[3] 2 Co.12,1.

[4] Cf.Ac.16,10;18,9.

[5] Cf.Rm.15,19;2 Co.12,12.

[6] Cf.Rm.15,20.

[7] o` crhsto.j path.r

[8] Cf.2 Co.12,7-8.

[9] 2 Co.12,9.

[10] Pr.18,12.

 

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