第13講話

「エルサレムよ、だれがおまえを惜しむだろうか」から、「わたしは子を失った」まで。


 

  エルサレムに対して大きな威嚇を伴って語られていることを、わたしたちは理解することにしましょう。その内容は次のようになっています。「エルサレムよ、だれがおまえを惜しむだろうか。だれがお前のために顔を曇らせるであろうか。また、だれがお前の平和を尋ねに戻るだろうか。お前はわたしに背いた、と主は言われる。お前は後ろに進め。そしてわたしは、わたしの手をお前に伸ばし、お前を滅ぼす。わたしはもうお前を放任しない。そしてわたしはお前たちを散らし四散させる」。そして、「わたしは子を失った」と[1]。為す術のない難しさが、わたしを捕らえています。大地を支配する王の敵であることが明らかとなった人の例を取り上げてみることにしましょう。そのような人には、憐れみをかけることさえ許されません。それは、罰を下した王に背いていると思われないようにするためです。そしてそのような人を憐れむことさえ許されない<のですから>、かれに対して敢えて顔を曇らせない人たちもいます。それは顔を曇らせることによって、王によって裁かれた人に心を痛めていると思われないようにするためです。もしもあなたがこの例を理解したのなら、どうか、その多くの罪のゆえに神によって断罪された人のことをお考えください。そしてそのような人は、人間たちの本性を助けるように命じられた天使たちが見ているとしても、かれらのだれからも憐れみを受けないことをご考察ください。天使たちは各々、裁きを下した方が神であり、背を向けた方が造り主であること、そしてもろもろの罪の本性が、慈しみ深い神に、こう言ってよければ、罪を犯した人に裁きの小石を投げるのを強いる性質のものであることを知っているので、(事の成り行きを)見ている天使たちはだれも、(その人を)惜しまず、顔を曇らせず、憐れまず、そのような人のためのの平和を願って戻ることもないのです。

ですから、このエルサレムは――たしかに文字(通りの意味)によればこう言われているのですが――わたしのイエスに対して罪を犯し、イエスがエルサレムについて次のように語るほどのことを行ったということにしておきましょう。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた者たちに石を投げつける者よ。雌鳥が翼の下に雛を集めるように、何度わたしはあなたの子らを集めようとしたことか。しかしあなたがたはそれ望まなかった。見よ、あなたがたの家は荒れ果てたまま、あなたがたに残されるだろう[2]」と。エルサレムは、現にそうされているように、見捨てられればよいのです。エルサレムを常に助ける天使たちは――かれらをとおしてモーセの律法も制定されました。「(律法は)天使たちをとおして、仲介者の手において定められた[3]」とあります――エルサレムを見捨て、こう言えばいいのです。

エルサレムの罪は、大きなものとなった。エルサレムはイエスを殺し、キリストに手をかけた。エルサレムの罪まだ小さかったときなら、わたしたちはその罪のことを考え、助けを求めることもできただろう。わたしたちは、エルサレムを惜しむことができただろう。しかしこのことの後でだれが惜しむのだろう。「罪を犯した人が人に対して罪を犯したら、かれのために執り成してくれる人もいよう。しかし主に対して罪を犯せば、だれがかれのために執り成してくれるのか[4]」。「エルサレムは罪を犯した。それゆえエルサレムは騒乱のなかに投げ込まれた[5]」と。

  そして、このようなエルサレムに対して、真っ先にこう言われたということにしておきましょう。「エルサレムよ、だれがお前を惜しむのか。だれがお前のために顔を曇らせるのか[6]」と。わたしたちは、エルサレムやエルサレムのもろもろの不運、そのすべての民に起こった出来事のために顔を曇らせません。なぜなら「かれらの罪によってわたしたちの救いがもたらされ、それが、かれらの妬みをおこさせた[7]」からです。そしてかれらの罪はあまりにも大きなものとなったので、主のみ声をとおしてこう言われているのです。「エルサレムよ、だれがお前を惜しむのか」と。わたしのイエスを殺したエルサレムに向かって、このわたしも申し上げます。「エルサレムよ、だれがお前を惜しむのか。だれがお前のために顔を曇らせるのか」と。



[1] Jr.15,5-7.

[2] Mt.23,37-38.

[3] Ga.3,19.

[4] 1 S.2,25.

[5] Lm.1,8.

[6] Jr.15,5.

[7] Cf.Rm.11,11.