3 また次の言葉も、エルサレムのそれぞれの解釈に一致するでしょう。すなわち「お前はわたしに背いた。お前は後ろに進め、と主は言われる[1]」とあります。お前が神の子に背いたとすれば、神の子に背いたことによって神にも背くことになるのですから、何を言うべきでしょうか。そしてユダヤにあるエルサレムはキリストに背いたわけですから――ところでエルサレムという言葉から、提喩法[2]によってすべてのユダヤ人たちを理解しなければなりませんが――これによって(エルサレムは)「お前は後ろに進め」(と言われるのです)。たしかにエルサレムが後ろに進まず、むしろ前に進んでいたときがありました。しかし今は、後ろに進んでいます。「そしてかれらは、心をエジプトに向けました[3]」。それは明らかに、かれらが後ろに進まねばならないということを示しています。「後ろに進む」ということが何であり、あるいは「前に身を伸ばす[4]」ということが何であるかについては、わたしたちは次のように説明することができるでしょう。正しい人は、「前に身を延ばし、後ろのことを忘れるのです[5]」。正しい人とは反対の心構えの人は、後ろのものに思いを馳せ、前にあるものに身を延ばさないのは明らかです。そしてそのような人は、後ろにあるものに思いを馳せて、イエスが「自分の衣を取りに、後ろに戻ってはならない[6]」と言って教えるみ言葉に耳を貸さないのです。そのような人は、「あなたがたはロトの妻を思い出しなさい[7]」と言われるイエスに耳を貸さないのです。そのような人は、「鋤に手をかけてから後ろを向く人は、神の国にふさわしくない[8]」と言われるイエスに耳を貸さないのです。また律法のなかでも、ソドムから脱出するロトに天使たちがこう言っていることが書き記されています。「あなたは後ろを振り向いてはならない。また、周辺のすべての土地に立ち止まってもいけない。山に逃れなさい。そうすれば、一緒に連れ去られることはない[9]」と。この言葉は、天使的な霊にふさわしい意味を持っています。すなわち「後ろを振り向いてはならない」ということは、前のものにいつも身を伸ばしなさいということなのです。あなたはソドムを捨てたからには、ソドムに戻ってはなりません。あなたは悪と罪を捨てたからには、それに戻ってはなりません。「周辺のすべての土地に立ち止まってもいけません」。たとえあなたが「後ろを振り向いてはならない」と言う最初の命令を守っても、「周辺のすべての土地に立ち止まってもいけません」という第二の命令を聞かなければ、最初の命令だけでは、あなたが救われるには不充分なのです。実際、進歩し始めたなら、たといソドムを踏み越えた[10]としても、ソドムの周辺の土地に立ち止まるべきではないのです。むしろ、聖書の言葉に従って、周辺の土地に立ち止まるどころか踏み越えて、山で救われなければなりません。こう書かれております。「あなたは後ろを振り向いてはならない。また、周辺のすべての土地に立ち止まってもいけない。山に逃れなさい。そうすれば、一緒に連れ去られることはない[11]」。もしもあなたがソドムの人々ともに連れ去られたくないと望なら、決して後ろを向いてはなりませんし、ソドムの周辺に立ち止まってもなりません。また山以外のどこにも行ってはなりません。なぜなら山でこそ救われることができるからです。そしてその山は、主イエスなのです。主イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[12]」。
[1]
Jr.15,6.
[2]
sunekdokicw/j:
cf. Com.Mt.XII, 38 (GCS
40, 155,15).
[3]
Ac.7,39.
[4]
Cf.Ph.3,13.
[5]
Cf.Ph.3,13.
[6]
Mc.13,16.
[7]
Lc.17,32.
[8]
Lc.9,62.
[9]
Gn.19,17.
[10]
diabe,bhken
[11]
Gn.19,17.
[12]
1
P 4,11.