11  「主よ、生じますように、もしもかれらが直き道を歩むなら。わたしは、かれらのもろもろの禍のとき、あなたのみ前に立たなかったでしょうか[1]」。「主よ」、何が「生じるのでしょう」か。(理解する)能力のある人は、「生じますように」という言葉に、次のような言葉を付け加えてみてください。主なる「ヤーヴェよ[2]、かれらが直き道を歩むなら」、呪う者たちのなかで衰えたみ力が「生じますように」――かれらがわたしを悪く言った後で回心し、直き道に向き変わり、それを歩むときと。

「主よ、かれらが直き道を歩むなら、(み力が)生じますように。わたしは、あなたのみ前に立っていたではありませんか」。次にイエスは、自分の悪口を言う人たちに対して弁明してこう言っています。「わたしはかれらのもろもろの禍のときに、あなたのみ前に立っていたではないですか」と。イエスは、「わたしたちのもろもろの罪のために宥めの供え物[3]」としておん父のみ前に立ったのです。そしてわたしたちのもろもろの禍のときに、わたしたちのために執り成してくださったのです。なぜなら、かれは、わたしたちのもろもろの禍のときの後で立ったのではなく、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストはわたしたちのために死なれた[4]」からです。「わたしは、かれらのもろもろの禍のときに、かれらのもろもろの抑圧のときに、(かれらの)敵を前にして(かれらの)善益のためにあなたのみ前に立ったではありませんか[5]」。イエスはまさに、かれらの抑圧のときに、すなわち、敵を前にしたかれらの抑圧のときに、「わたしはかれらのためにあなたのみ前に立った」と言っているのです。敵とは誰でしょうか。それは、わたしたちを抑圧し「わたしたちを責め立てる悪魔[6]」に他なりません。明らかに、人間たちに対するこの悪魔の敵意のとき、わたしたちのキリストはおん父のみ前に立ち、囚われの身のわたしたちのために、わたしたちが敵から贖われ救い出されるように願ったのです。

以上のことを、救い主あるいは預言者(エレミア)が言ったとしておきましょう――実際、預言者もそれらの言葉を言うことができますし、「かれらの災いのとき」に民のために祈ることができたからです――。



[1] Jr.15,11.

[2] de,spopa ku,rie

[3] 1 Jn.2,2.

[4] Cf.Rm.5,6.

[5] Jr.15,11.

[6] 1 P.5,8.

 

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