14  「わたしがあなたゆえに、あなたのみ言葉をなおざりにする人々から非難を受けたことをお知りおきください[1]」。これは預言者が言ったことだとしましょう。なぜなら預言者は語り、語った話の内容のゆえに、無視され、罪人たちによってなおざりにされたからです。実際、かれは、「わたしは絶えず嘲笑された[2]」と言っています。たしかにかれは、かれを通して神がお語りになった言葉をなおざりにする人々によって非難されたのです。そしてかれは、なおざりにされたので神が助けてくださるように祈り、こう言ったのです。「わたしがあなたゆえに、あなたのみ言葉をなおざりにする人々から非難を受けたことをお知りおきください。かれらに止めを刺してください[3]」と。この言葉は預言者が言ったということにしておきましょう。しかし「かれらに止めを刺してください」という言葉は、救い主によって言われたということにした方が、いっそうふさわしいでしょう。なぜなら、わたしたちの救い主に対する民の企てに起因する出来事が起こったとき[4]、エルサレムとこの民に終焉が訪れたからです。

これらの後、預言者たちは、譴責の言葉を掛け、み言葉の大使となり[5]、神によって命じられたことを話すことによって大いに苦しんだのですから、聴衆の人たちに、預言者たちの生活とかれらの約束、そしてわたしたちの選びについて思い起こさせる必要があるでしょう。それは、もしも私たちが預言者たちとともに安息を得ることを望むなら、わたしたちも、わたしたちにできる限りで、預言者たちの業を見習うようにするためです。わたしが言いたいことは次のことです。わたしたちはしばしば祈りのなかで、次のように言います。全能の神よ、わたしたちを預言者たちにあやからせて下さい、わたしたちをあなたのキリストの使徒たちにあやからせて下さい、こうしてわたしたちがキリストご自身と共にいるようにさせて下さいと。しかしわたしたちは、これらのことを言いながら、わたしたちが何を祈っているか知らないのです。すなわちわたしたちは潜在的に次のことを言っているのです。わたしたちも預言者たちが苦しんだのと同じ苦しみを味わわさせてください、わたしたちも預言者たちが憎まれたように憎まれるようにして下さい、わたしたちが憎まれるようになる言葉を与えて下さい、使徒たちが陥ったのと同じ艱難にわたしたちも陥らせて下さいと。たしかに預言者たちの苦しみを苦しまずまた苦しもうとしないで、どうかわたしが預言者たちにあやかれるようにして下さいと言うことは、正しいことではありません。パウロの心がけで真実を語り、「苦労したことはずっと多く、打たれたこともずっと多く、牢屋に入れられたことは比べられないほど多く、死に瀕したこともたびたびでした[6]」と言おうとしないで、どうかわたしも使徒たちにあやからせて下さいということは、何にもましてもっとも正しくないことなのです。ですからいやしくもわたしたちが、預言者たちとともにいたいと望むなら、預言者たちの生活をお考えください。かれらは非難し咎め譴責することによって、裁かれ反撃され断罪されたのです[7]。「かれらは、石で打たれ、鋸で切り裂かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮をまとって歩き回り、(必要なものに)事欠き、虐待され、苦しめられ、荒れ野をさ迷い歩きました[8]」。他方ユダヤ人たちの会堂はたくさんあって、かれらも「荒れ野や山をさ迷い歩き、洞穴や地の穴を住家としていました[9]」。だれかが、預言者の生活を見習おうとして、罪人を非難し咎めても、悪口をたたかれ憎まれ陰謀にかかるととすれば、それは何と逆説的なことでしょう。これとまったく同様に、神の教会でも、次のようなことが最近起こらねばなりませんでした。すなわち裁判に掛けられた人が断罪されました。そして裁きの座に着いた有能な人がそのような判決を下しました。教会の判決が下りる必要がありました。そして判決が下りました。そしてその任務を委ねられた人は、為さねばならぬことを行いました。そして先の人は(方々を)歩き回り、真理(の判決)を告げた人を悪く言いふらしたのです。しかしわたしたちは、このようなことを行ってはいけません。わたしたちは、追放されたので追放した人やそれに賛同した人を悪く言う人たちに耳を貸さないようにしましょう<・・・[10]>。驚嘆すべき使徒たちは、真理のゆえに無数の侮辱を受けましたが、次のように言っています。「わたしは弱さがあっても、侮辱されても、災難に遭っても、迫害や行き詰まりに出会っても、キリストのためならそれでいいと思っています[11]」と。わたしは、侮辱を受けたときにのみ、他ならぬキリストのゆえに何らかの侮辱を受けたことを知ることができるようになりたいものです。わたしは、災難に遭ったとき、これらの災難のきっかけはキリストであることを知ることができるようになりたいです。わたしは罵られたとき、この罵りの動機が、わたしが真理(の判決)を告げ、聖書のために「大使[12]」となったこと以外のなにものでもないことを知ることができるようになりたいものです。すべてが神のみ言葉に従って行われるように取り計らったために、わたしが悪口を浴びせられるようになりたいものです。

ですからわたしたちもまた出来る限りで、労苦をものともせず、預言者の生活、使徒の生活を目指すことにしましょう。<なぜなら>競技者は、競技の労苦を厭うなら、栄冠の望みを得ることがない<からです>。



[1] Jr.15,15-16.

[2] Jr.20.,7.

[3] Jr.15,15-16.

[4] ローマ軍によるエルサレムの陥落のことである。

[5] Cf.Ep.6,20.

[6] 2 Co.11,23.

[7] Cf.Jr.15,10.

[8] He.11,37-38.

[9] He.11,38.

[10] この個所に次のようは言葉があるが、直後に欠落があるため訳せない。

oi~ kai. avdiki,aj ge evlegcome,nhj kai. gegenhme,nhj

[11] 2 Co.12,10.

[12] Cf.Ep.6,20.