しかしわたしがこの言葉を取り上げて以上のことを申しましたのは、「わたしは債務者にならなかった。また、わたしは誰の債権者にもならなかった[1]」という言葉を説明するためです。ところで、二種類の本文があります。もっとも多くの写本では、「わたしは役立たなかった。また、誰もわたしに役立たなかった」とあります。しかしヘブライ語に一致するもっとも正確な諸写本では、「わたしは債務者にならなかった。また、わたしは誰の債権者にもならなかった」とあります。したがって諸教会で流通している通常の言葉を解釈するとともに、ヘブライ語聖書に由来する言葉を解釈しないで捨て置くことのないようにしなければなりません。

さて、エレミアはみ言葉を宣べ伝えておりました。しかし誰も語られたことを受け容れませんでした。それはちょうど病人たちが不従順で、自分たちの欲望だけを満たしていたので、医者が薬を浪費してしまったのと同じことです。エレミア、ちょうど医者のように、「わたしは役に立たなかった。また、誰もわたしに役立たなかった」と言ったのです。おそらく、利益を受けた人が利益を与えてくれた人に抱く人間愛のゆえに、話をする人も利益を与えられて、同じような感慨[2]を持つことがあるでしょう。なぜなら「聞く耳のある者たちに語る人は幸せ[3]」だからであります。ですから、教師は、聞き手の人たちが進歩し改善されたとき、かれらから利益を受けることができるのです。教師は、かれらの中にかずかずの実りを得ることによって利益を受けることができるのです[4]。<エレミアは、ユダヤ人たちからこの利益を得なかったのでこういっています>。「誰もわたしに役立たなかった」と。実際、語り手は聞き手たちのなかで実りを得なければならないとすれば、聞き手が話を聞き違え、語られたことの外側にいる場合には、「誰もわたしに役立たなかった」と言われるのです。なぜなら語り手は、利益を受けた聞き手が利益を与えた人に対して進歩と至福の原因となることによって得ることのできる利益を得なかったからです。さらにすべての教師は、学習者が利発でありさえすれば、教えることそれ自体によって、教えていることそして学んでいることから利益を受けるのです。そして聞き手たちが利発であり[5]、話を単に受け取るばかりでなく、語られたことを逆に確かめ、尋ね、検討するとき、語り手たちは、自分が伝える知識に関してより優れた人となるのです。



[1] Jr.15,10.

[2] avntipa,qeia

[3] Si.25, 9 (12).

[4] Cf. Rm.1,13.

[5] Cf. Is.3,3.

 

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