ですから「わたしは役立たなかった。また、誰もわたしに役立たなかった」のです。しかし、「わたしは債務者にならなかった。また、わたしは誰の債権者にもならなかった」というもっと正確な写本によって、別の解釈も必要になりましたから、わたしたちはその言葉についても説明してみましょう。「すべての人に(借りとして負っている)負債を返す人ひとは、すなわち、恐れるべき者には恐れを、税を納めるべき者には税を、貢を納めるべき者には貢を、敬うべき者には敬いを返す人[1]」は、またすべての人に債務を返済して、誰に対しても負債を負わないようにする人は、たとえば<両親を>両親として敬い、兄弟を兄弟として敬い、子どもたちを子どもたちとして敬い、司教たちを司教たちとして敬い、司祭たちを司祭たちとして敬い、助祭たちを助祭たちとして敬い、信者の人たちを信者の人たちとして敬い、要理教育を受けている人たちを要理教育を受けている者として敬う人は、もしもすべての負債を返済しているなら、負債を負ってはいないのです。しかしもしも負債を返済しなければならないのに、まだやっていなら、その人は、「わたしは債務者にならなかった」と言うことはできないのです。なぜならその人は負債を負っていながら、まだそれを返していないからです[2]

  では、わたしたちは、「また、わたしは誰の債権者にもならなかった」という言葉をどのように説明すればよいでしょうか。このわたくしは、高利貸をしていました。このわたくしは霊的な金銭を与えようと望んでいたのです。ところが人々は、言われたことに背を向けてしまい、(これらの言葉を)受けて負債を負う者になろうとしませんでした。それでわたしは、誰の債権者にもならなかったのです。一体誰が、言われたことを受け入れて、受け入れることによって聞いた言葉の負債者となり、語られた言葉の負債者として利子の支払いを求められたのでしょうか。

ですからこの点で聞き手は、語り手から言葉の金銭を受け負債者となる方が、受け入れず受け取らず負債者とならないよりもましなのです。なぜなら「また、わたしは誰の債務者にもならなかった」という言葉は、非難として語られているからです。



[1] Cf. Rm.13,7.

[2] Cf. De orat.28,2 (GCS 3, 376, 6).

 

次へ