実際、救い主は全地で裁かれることになっています。わたしは次の個所を見てみたいと思います。解釈によってはこの個所は、予言者に関連付けることもできますし、<また>救い主に関連付けることもできます。次の個所をわたしたちは見てみましょう。「わたしは誰の債務者にもならなかたっし、誰の債権者にもならなかった[1]」。「この世の支配者が来る。しかしかれは、わたしの中に何も持たない[2](と、救い主は言われます)。救い主は本当に債務を負っていませんでした。わたしたちの一人ひとりが、諸々の罪に対して負債者となっているのです。「手書きの債務証書[3]」を持った負債者なのです[4]。各自の債務証書が消された後で[5]、かれらはどれほど多くの債務証書を作ったことでしょうか。

「罪を犯したことがなく、その口には偽りも見出せなかった[6]」お方は、手書きの借用証書を作りませんでした。しかし「わたしは誰の債権者にもならなかった[7]」とは、一体どういうことでしょうか。この「わたしは誰の債権者にもならなかった」という言葉を、わたしたちはどのようにして、救い主に関連付けて説明することができるのでしょうか。わたしたちはこのように読みましたが、七十人訳の大部分の写本はこのような読み方をしていないことを知っておかねばなりません。以前わたしたちは、その他の訳を検討したとき、筆記上の誤りがあることを知りました[8]。しかしいずれの読み方でも、この個所を説明することができます。では、「わたしは誰の債権者にもならず」、「誰一人として」かれに負債を負わなかったということを、どのように説明すればよいのでしょうか。かれは、かれらの負い目をすべて赦されたのです。「ある金貸しの男に金を借りた二人の負債者がいた。一人は五百デナリを借り、もう一人は五十デナリ借りていた。かれらは金を返すことができなかったので、金貸しの男は、二人とも赦してやった[9]」とあります。あなたは、この二人の負債者、すなわち五百デナリの負債のある人と五十デナリの負債のある人を知りたいとお望みなのですか。神を信じた人々は、二種類の民の出身です。ユダヤ人の民は、キリストを信じなかったので、五十デナリの負債があります。おそらくわたしたち、異邦の民の出身者たちは、誰よりも不敬虔な者たちだったので、五百デナリの負債があるでしょう。異邦の民の出身者たちにはまた、あの悔い改めた売春婦に言われた言葉が言われるでしょう。しかし、どうしてこの五百デナリがあの娼婦に関係づけられるのですかと言う人がいるかもしれません。「自分に触っている女がどこから来た者か[10]」という質問に対して、かれはシモンに言っています。「ある金貸しの男に金を借りた二人の負債者がいた。一人は五百デナリを借り、もう一人は五十デナリ借りていた」等々と[11]

以上は、あなた方に説明しなければならなかった「私は債務者になったことはなく、誰の債権者にもならなかった[12]」という言葉のために述べてみたものです。「わたしは誰の債務者にもならず、また誰の債権者にもならなかった。わたしの力は、わたしを呪う人たちの内で衰えてしまった[13]」。しかし(キリストは)たとえ「弱さによって」死んでも、「神の力によって生きているのです[14]」。



[1] Jr.15,10.

[2] Jn.14,30.

[3] Col.2,14.

[4] Hom.Gn.XIII,4 (GCS 29, 120, 16-21).

[5] 洗礼による。

[6] 1 P.2,22.

[7] Jr.15,10.

[8]本文中の「その他の訳」は、オリゲネスの場合、アキラ訳、シュンマコス訳、テオドティオン訳をさす。 Cf.Hom.Jr.XIV,3;P.Nautin, Origène, p.310s.

[9] Lc.7,41-42.

[10] Lc.7,39.

[11] Lc.7,41-42.

[12] Jr.15,10.

[13] Jr.15,10.

[14] 2 Co.13,4.

 

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