しかし天使のもとに行った人が、どのようにして天使を通して神を見ることができるのかを証明するには、実例がわたしには必要です。『出エジプト記』には次のように書かれています。「主のみ使いが燃える柴の炎の中で、モーセによって見られた。そしてモーセは、柴が火に燃えているのに、しかも柴が燃え尽きないのを見た[1]」。そして聖書は、先ほど「天使が見られた」と言ったのと同じように、「(わたしは)主のみ使いである」とは言わず、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である[2]」と言ったのです。実にここにおいて神は、天使の内に観想されたのです。神はいわば岩を通して、岩の内にある穴を通して認識されるのです。

ですからあなたには、いつ狩人たちが遣わされるのかわかりません。それゆえ、あなたは諸々の山から決して下りてはなりません。また決して諸々の丘を離れてはなりませんし、諸々の岩の穴から外に出てはなりません。実際、万が一あなたが外にいるのが見出されるなら、あなたは、外部のこと(ばかり)を語る外の人と同じように、次の言葉が言われるでしょう。「愚か者、今夜、お前の生命はお前から取り上げられる。そうしたらお前が貯えたものは、いったい誰のものになるのか[3]」と。これらのことがあなたに言われるでしょう。そしてあなたが次のように言っても、これらのことは言われるでしょう。つまり「わたしは、倉を取り壊し、もっと大きいのを建てよう。そしてわたしの魂に言おう。『魂よ、お前は多くの年を過ごせるだけの善いものをたくさん貯えて持っている。休んで、食べたり飲んだりして楽しめ』[4]」と。あなたは、諸々の山の下にいる人、諸々の丘の下にいる人、諸々の岩の穴の外にいる人が、諸々の善き物の判断においてどのように思い違いをしているかおわかりでしょう。それでその人は言うのです。「そしてわたしは、わたしの魂に言おう。『魂よ、お前は多くの年を過ごせるだけの善いものをたくさん貯えて持っている』」と。かれは、穀物や地の豊かな実りを善きものと見なしたのです。かれには、本当に善きものは呪われた地にあるのではなく、むしろ本当に善きものは天にあるのだということがわかりっていませんでした。そしてかれは、地上にあるものが善きものだと思っていましたので、「地上に貯えたのです」。しかしもしもある人がイエスを信じて「地上に貯える」ことから離れ、「天に貯える[5]」ことへと移ったとすれば、その人は、「愚か者、今夜、お前の生命はお前から取り上げられる[6]」とは言われないでしょう。その代わり、狩人たちが来て、下にいる生き物ではなく、諸々の山にいる生き物、諸々の丘にいる生き物、諸々の岩の穴に避難した生き物たちを探し出して、それらを取り集め、それらをこの狩猟によって連れ去っていくでしょう。どこへ。キリスト・イエスに結ばれた成人たちと幸いな者たちの休息にです。

確かに「わたしの目は、かれらの諸々のすべての道に注がれている[7]」と(主は)言います。かれらとは、(今わたしが述べた)これらの人たちです。諸々の山の上、諸々の丘で、そして諸々の岩の穴の中で暮らしている人たちの「すべての道に」、神は目を向けられるのです。

そしてこのような人たちは、わたしの面から隠れることはありませんでした[8]。なぜなら劣悪な者たちが、神の面から隠れるからです[9]。アダムは(不従順の)罪を犯した後、「園の中を昼下がりに逍遥していた神なる主の声[10]」を聞き、<隠れました>。ところが聖なる人は隠れませんでした。かれは、神のみ前で聖なる生活をする確信を心に抱いているのです。実際、「もしもわたしたちの良心が責めなければ、わたしたちは神のみ前に確信を持っていられます。そしてわたしたちが神に求めるものは何でも頂けるのです[11]」。とはいえアダムは、罪を犯したとしても、極端にひどい罪を犯したのではありません。それで彼は、「神の面から隠れたのです[12]」。これに対して彼よりももっと罪深くて、冒涜的な兄弟殺しであったカインは何をしたでしょうか。「彼は神の面から去った[13]」とあります。ですからこれらの悪を比べてみますと、「神の面から隠れる」ことは、それほど大きな罪ではありません。なぜなら彼は、恥を感じないで隠れたわけではなく、神を畏れて隠れたからです。



[1] Ex.3,2.

[2] Ex.3,6.

[3] Lc.12,20.

[4] Lc.12,18-19.

[5] Mt.6,19-20.

[6] Lc.12,20.

[7] Jr.16,17.

[8] Cf.Gn.3,8.

[9] Cf.Philon, Leg.alleg.III,1,1.

[10] Cf.Gn.3,8.

[11] Cf.1 Jn.3,21-22.

[12] Gn.3,8.

[13] Gn.4,16.

 

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