ではどういうことでしょうか。あなたは「先ず[1]」、木と草と藁を滅ぼす「火」を報いとして受けることになるのです。なぜならわたしたちの神は、理解力のある人たちには、本性上「滅ぼす火」と言われているからです。「わたしたちの神は滅ぼす火だ[2]」と言った預言者は、何を滅ぼすのかについては沈黙していて、その理解をわたしたちに委ねています。「神は滅ぼす火だ」と預言者は言っているのですから、滅ぼされるものが何かあるはずです。では滅ぼされるものは何でしょうか。たしかにそれは、「像と似姿に則して造られたもの[3]」を滅ぼすのではありません[4]。それがご自身に固有の被造物を滅ぼすことはありません。上に継ぎ建てられた草、上に継ぎ建てられた木、上に継ぎ建てられた藁を滅ぼすのです[5]

  この個所は非常に解釈しづらいところでした。数々の約束がありました。そしてそれらの約束の後で(神は)、「そしてわたしは先ず、彼らの不正を二倍にして報いる[6]」と言いました。「先ず」という言葉が付け加えられるのは必然でした。なぜなら不正に属する事柄に「先ず」報いが与えられ、それから正義に属する事柄に報いが与えられるからです。神が逆の順番で報いることはありません。もしも神が諸々の善を「先ず」報いとして与えたとすれば、わたしたちは諸々の悪を報いとして受け取るために、諸々の善を手に入れるということになったにちがいありません。<しかし神は諸々の悪を報いとしてお与えになります>。それは、諸々の悪の消滅の後で、苦しむ者たちの数々の懲らしめが終わりを告げ、その後に神が諸々の善を報いとしてお与えになるためなのです。そのようなわけであなたは、聖書の中に、神が「先ず」より悲しむべきことのように見える事柄について語り、その後で、より優れた事柄を語るのを見出すでしょう。「わたしは殺し、そして生かす。わたしは打ち、そして癒す[7]」、「(主は)苦しめ、再び回復してくださる。(主は)叩いた。そして(主の)み腕は癒して下くださった[8]」。これらの言葉を理解し、語られたことに<敬虔な>態度を取ること人は、次のように言うことができるでしょう。「主よ、誰があなたの幕屋に留まれるのですか。あるいは誰があなたの聖なる山に幕屋を張れるのですか。とがなく歩み正義を行ない、その心において真を語る人、彼は、その舌において欺かず、自分の隣人に悪を行なわず、自分の隣人たちを辱めなかった[9]」――わたしたちは、聖書が「罪から回心した人を辱めてはならない[10]」と言っているのに、悔い改め回心する人たちを辱めています――。彼は、「自分の隣人たちを辱めなかった。邪悪な者は彼の前では無に等しい。しかし彼は、主を畏れる人たちをたたえる[11]」。



[1] Jr.16,18.

[2] Dt.4,24; Hb.12,29.

[3] Gn.1,26.

[4] Cf.Hom.Gn.XIII,4.

[5] Cf.Hom.Jr.II,1.

[6] Jr.16,18.

[7] Dt.32,39.

[8] Jb.5,18.

[9] Ps.14,1-3.

[10] Si.8,6.

[11] Ps.14,3-4.

 

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