うずらについてはこれ位にしておきましょう。さて、第二の話題の初めは、次のように朗読されました。「栄光の玉座、元から高められていた場所、我らの聖化、イスラエルの忍耐。主よ、あなたを捨てたすべての者は、離れ去って辱めを受け、地上に書き記される。なぜなら彼らは、生命の源である主を捨てたからだ[1]」と。祝福された預言者イザヤは、主とその支配を見て、「私は、万軍の主が高く上げられたいと高き玉座に座しておられるのを見た[2]」と言っています。そしてエレミアも、どのようにして主が支配しておられるかを見て、主に栄光を帰し、こう言っております。「栄光の玉座、元から高められていた場所、我らの聖化」と。あなたは、これらのことをキリストに関して理解したい場合には、罪を犯さないで下さい。また、これらのことをおん父について理解する場合にも、不敬虔なことを考えないで下さい。実際、救い主は、まさに元から「栄光の玉座」であり、「<いと高き>栄光の玉座」なのです。なぜなら彼の支配は、いと高きものだからです[3]。キリストは、「我らの聖化」です。なぜなら「聖化する方と聖化されるすべての者たちは、ただひとつのお方に由来するからです[4]」。

「イスラエルの忍耐[5]」。救い主は、正義そのもの、真理そのもの、聖性そのものでおられるのと同じように、忍耐そのものでもあります[6]。そしてキリストなくしては、正しい者であることはできず、キリストなくしては聖なる者であることもできません。またキリストを持たなければ、忍耐深くあることもできません。なぜならキリストは、「イスラエルの忍耐」だからです。また神に当てはめてみても、あなたは冒涜を働くことにもなりません。

「主よ、あなたを捨てた者は皆、離れ去って辱めを受ける[7]」。わたしたちはそれぞれ、罪を犯すと、犯した罪によってキリストを捨てます。またキリストを捨てることによって神を捨てます。不正を働けば「正義」を捨て、汚らわしい者となれば「聖性」を捨て、争いを起こせば平和を捨て、敵意をもてば「贖い」を捨て、知恵の外にあれば、「神の知恵」を捨てるのです[8]。ですから預言者は、神を捨てた者たちを呪って、彼らに起こることをわたしたち教えているのです。「あなたを捨てた者は皆、辱めを受け」、離れ去った分だけ辱めを受けよ」と。

「彼らは地に書き記される[9]」。すべての人間が書き記されます。聖なる人たちは天に、罪人たちは地に。イエスによって弟子たちにこう言われています。「あなたたちは喜びなさい。あなたたちの名は諸々の天に書き記された[10]」と。ですからもしも誰かが、その名前を諸々の天に書き記されるようになったなら、喜ばねばなりません。そして聖なる人たちの名前が諸々の天に書き記されるのと同じように、地上の暮らしをして、エドムの地を迂回しせず、エドムの地の畑とブドウ畑を所有する人たちの名前は[11]、神を捨てた人たちの名前として[12]、「地上に」書き記されるのです。

「彼らは辱めを受ける」、なぜなら「彼らは離れ去った」からだ。そして「彼らは地上に書き記される」と言われています。実際、「あなたがたの量るその量りで、あなたがたは量られる[13]」のです。それぞれの人は、書き記されることについてそれぞれ責任があります。もしもあなたが地上に<あるものを>探し求めるなら、あなたは天にあるものを探し求めるのではありません。もしもあなたの魂が(この代の)生業に傾くならあなたはあなた自身に対して責任があるのです。イエスはこう言っております。「あなたがたは自分のために地上に宝を積んではならない。そこでは、虫やさびが(宝を)だめにし、泥棒が穴をあけ盗み出す。むしろあなたがたは自分のために諸々の天に宝を積みなさい[14]」。あなたが天に宝を積むのですか。あなたは、ご自分の名前が諸々の天に書き記されることに責任があるのです。

「彼らは地に書き記されよ」という言葉に関しては、これくらいにしておきましょう。(預言者は)次にその理由を述べています。「なぜなら彼らは、生命の源である主を捨てたからだ[15]」と。また同じ預言者は、初めのところで、「彼らは、生命の水の源であるわたしを捨てた[16]」と言っていました。そしていま、彼は、「彼らは生命の源である主を捨てた」と言っているのです。ですからわたしたちも、生命の源である主を捨てることを望んでいないのであれば、イエスの正真正銘の弟子たちが[17]「お前たちまで行こうとするのか[18]」と言われたとき、答えたのと同じ返事を言うことにいたしましょう。では、わたしたちは何と言えばよいのでしょうか。「主よ、あなたをおいて誰のところに行きましょう。あなたは、永遠の生命の言葉を持っておられます[19]」。



[1] Jr.17,12-13.

[2] Is.6,1.

[3] Cf.Hom.Is. I, 1 (GCS 33, 243, 23 ou PG 15, 220 C).

[4] He.2,11.

[5] Jr.17,13.

[6] Cf.Hom.Jr. XV, 6; De orat. 10 (GCS 3, 10, 28); Com.Jn. VI, 6(3), section38; C.Celse III, 41, 7 (SC 136, 96); VI, 47, 29; Com.Jn. I, 9 (11) section 59.

[7] Jr.17,13.

[8] Cf. 1 Co.1,30.

[9] Jr.17,13.

[10] Lc.10,20.

[11] Cf.Nb.20,17-19.

[12] Cf.Philon, Quod Deus sit immut. section 144.

[13] Mt.7,2.

[14] Mt.6,19-20.

[15] Jr.17,13.

[16] Jr.2,13.

[17] Cf. Com.Jn. XIX, 22 (5) section 150; II, 34 (28) section 207; XIII, 42 (42) section 275; XXXII, 21 (13) section 278, etc.

[18] Jn.6,67.

[19] Jn.6,68.

 

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