ここで第二の節は終わります。次に、次のような内容の祈りが新たに登場します。「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう。わたしを救ってください。そうすればわたしは救われるでしょう。なぜならあなたは、わたしの誇りだからです。ご覧ください、彼らはわたしに向かってこう言っています。『主のみ言葉は、どこにあるのか。それを来させてみよ』と。しかしわたしは、あなたの後に従うことに疲れ果てませんでした。また人間の日を望みさえしませんでした。あなたはよくご存知です[1]」。病気の人たちがいるがゆえに来た医者だけが、しかも「健康な人たちには医者はいらない。医者が必要なのは病気の人たちである[2]」と言った医者だけに、自分の魂の病を治してもらいたいと願っているすべての人は信頼して言うことができるのです。「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう」と。しかしこのような医者とは別の誰かが魂の治療を約束しても、おそらくあなたはそのような人に向かって、「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう」とは言わないでしょう。実際、「長血を患っていた」あの女性が、医者のために「自分の持ち物をすべて使い果たした」のに、「どんな医者によっても治してもらうことができませんでした[3]」。なぜならそれらの医者の誰に対しても、「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう」と正当に言うことができなかったからです。それよりも、「その衣のふさに触れる[4]」だけで充分なお方に対してだけ、そのように言うことができたのです。ですからわたしは、そのお方に「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう」と言うのです。実際あなたが治療なされば、その目的があなたの治療に続きます。(あなたの)治療は、わたしが救われることだからです。どんなに多くの人が救おうとしても、わたしは救われないでしょう。真の意味での救い、それはキリストがお救いくだされば、そのとき「わたしは救われる」ということなのです。「馬は救いの役には立たず」、神以外のすべてのものも「救いの役には立ちません[5]」。それゆえわたしはキリストにこう申し上げたいと思います。「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう」と。そしてわたしは、一切の誇りを捨て去った後に続く言葉を言うことができれば、すなわち「なぜならあなたは、わたしの誇りだからです[6]」と言うことができれば、あるいは次のように言う掟を果たすなら、わたしは、「主よ、わたしを癒してください。そうすればわたしは癒されるでしょう」と言いたいと思います。その掟とは、「智恵ある者は、自分の智恵を誇るな。力ある者は、自分の力を誇るな。富みある者は、自分の富を誇るな。むしろ誇るものは、このことを誇れ。わたしが主であることを理解し知ることを[7]」というものです。ですから、高貴な生まれや美しさ、身体上の事柄とか富み、栄光などの現世の誇りをすべて捨て去り、「なぜならあなたは、わたしの誇りだからです」と言えるただ一つの誇りで満足する人は幸い。



[1] Jr.17.14-16.

[2] Mt.9,12.

[3] Mc.5,25.

[4] Lc.8,43; Mt.9,20.

[5] Ps.32,17.

[6] Jr.17,14.

[7] Jr.9,23-24.

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