第18講話

「エレミアに臨んだ主のみ言葉が、『お前は立ち、陶工の家に行け』と言う」から、「彼らの地を滅ぼし嘲笑の的とする」まで。


 

  エレミアの幻が立て続けに二つ読み取れます。その初めの一つは、陶工の手の内にある粘土の器に関するものを含んでいます。その器は、壊された後でも修復できるものです――確かにそれは、 作り直すことができます――。そして次の幻は、焼かれた陶磁器に関するものを含んでいます。それは壊されると、直すことができません。実際、粘土であれば、それが壊されても、あたとえ形を与えられた後であっても、それは粘土ですから、それはもう一度練り直され、再び成型されます。しかし粘土が陶器となった後で、火で固められてしまえば、その陶器が壊されると、もう直すことはできません。一体これはどういうことを意味しているのか、わたしたちはまず、大雑把に考えてみましょう。そして神が許されるなら、一語一語検討してみることにしましょう。

  わたしたちは、この世で生活している限り、いわば粘土の器なのですから、陶工の手によって成型されます。それも、悪徳や徳に従って成型されます。しかしわたしたちは成型されると言っても、わたしたちの悪徳が砕かれて、新しいよりよい被造物になるように成型されるか、わたしたちの進歩が、その成型の後で粘土の器に分解されるように成型されるのです。しかしわたしたちはこの世を渡って、生命の終わりに来たとき、そして「邪悪なものの火矢[1]」によって焼かれて、なるべきものになったとき、あるいは神の火によって焼かれて――なぜならまさしく「わたしたちの神は焼き尽くす火[2]」だからです――なるべきものになったとき、とにかく何らかの火によってわたしたちがなるべきものになり、わたしたちが壊されれば、よい器になった後で壊され滅ぼされようと、邪な器になった後でそうされようと、わたしたちは造り直されませんし、わたしたちのより善き成型はあり得ません。それゆえわたしたちはここにいる限り、いわば陶工の手中にあり、もしも陶工の手から器がすり抜け落ちれば、それは治療と再創造を受け入れるのです。

以上は、二つの種類の器、すなわち一つは粘土でできていますがまだ焼かれて陶器になっていない器と、もう一つは既に陶器になった器とについて言葉によって詳細に検討する前に、若干手短に述べてみたということにしましょう。



[1] Cf.Ep.6,16.

[2] Dt.4,24; He.12,29.

 

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