しかしわたしたちは、朗読されたことから、陶工の手中にある粘土の器について語られていることを考察し、またどのようにして、預言者の内におられるみ言葉ご自身、すなわち預言者の内で預言される主が、陶工の手中にある陶器についての短くない解釈のまた別の出発点をお与え下さるか見てみることにしましょう[1]

「主からエレミアに臨んだ言葉が次のように言った。『お前は立って、陶工の家に下れ』と[2]」。エレミアは上の方にいました。彼は、粘土の器を超えていたのです。下の方に粘土の器がありました。そして粘土の器を管理する本性は、管理されるもののために下り、下の方にいます[3]。それで、主からエレミアに臨んだみ言葉は、彼にこう言っているのです。「お前は立って、陶工の家に下りなさい。そしてそこでお前は、わたしの言葉を聞くだろう[4]」。モーセには、「お前は山に登って、聞きなさい[5]」と言われています。エレミアには、「お前は立って、陶工の家に下りなさい。そしてそこでわたしの言葉を聞くだろう」と言われています。み言葉を聞く人たちはそれぞれ、上にある諸々の事柄について教えられるか、あるいは下にある諸々の事柄について学ぶのです。<もしもわたしが下にあるもの>を学ぶとすれば、わたしは、下にあるものを見るために言論によって下に降りていきます。しかしもしもわたしが上にあるものを学ぶとすれば、わたしは彼方にあるもの[6]を観想するために、言論によって上っていくのです。

しかし皆さんが各自に可能な限りで、言われたことに付いて行くことができるように、わたしは、これまた聖書から取られた例を使うことにしましょう。そしてこの例ついて解明を施し、(神によって)与えられる解釈の手掛かりを得ることにいたします。「イエスの名において、天にあるもの、地上にあるもの、地下にあるもののすべての膝がかがみ、すべての舌が、イエス・キリストはおん父なる神の栄光のために主であると告白するでしょう[7]」とあります。これらの各々のついて、智恵が存在します。諸々の天に関して、それらがどのようにして配置されたかについての智恵。地下にある諸々のものに関する智恵があります。なぜなら地下にある諸々のものの配置に関する智恵も神のものだからです。同様に、地上にある諸々のものに関する智恵もあります。もしもわたしが諸々の天に関する智恵を受け容れようとすれば、諸々の天に昇っていくのです――それは、(聖書に)書き記されているように、モーセが、天から来る声を聞き取れるようになるために、山の頂きに登ったのと同じようにです。実際、モーセは、天上の礼拝を教えられることになっていました。なぜなら使徒が教えていっていたように、書き記された律法には天の諸々の神秘の影と雛形があったからです。使徒はこう言っています。「彼らは、天の諸々の事柄の雛形と影の内に礼拝している[8]」と。ですから私が天の諸々の事柄について教えを受けるために登っていくのと同じように、私が地下の諸々の事柄がらについて学ぶ必要がある場合には、私はまさに預言者となって、下るのです。おそらくそれ故に、サムエルが、地下の諸々の事柄を教えられて下り、黄泉に赴いたとき、それは、黄泉にいくように断罪されたからではなく、地下の諸々の事柄の諸々の神秘の偵察者、観照者になるためだったのです[9]。智恵に関して使徒によって言われた認識上の区別もこれと同じようなものかもしれません。使徒は、「広さ、長さ、深さ、高さとは、どのようなものでしょうか[10]」と言っています。あなたは、高さを認識しようとすれば、言論によって高みへと登ります。<あなたは、深さを認識しようとすれば、言論によって深みに下ります>。あなたは、高みと深みの中間にある諸々の事柄を認識しようとすれば、広さと長さを認識するのです。神のおん子に従っていくことのできる精神は、すべてのことを教えてくださるみ言葉に導かれてどこにでも行きます。そして従っていくとは、その精神がこの世に別れを告げ、「十字架を担う[11]」ことによってであります。実際、「この世はわたしに対して十字架に付けられ、わたしもこの世に対して十字架に付けられた」と言うことのできる人が、イエスに付いていくことができるのです[12]

  「お前は陶工の家に下りなさい。そしてそこでお前はわたしの言葉を聞くだろう[13]」と言うことばに決着がつけられねばなりませんでした。なぜならその言葉を「お前は上りなさい。そしてお前は私の言葉を聞くだろう[14]」という言葉と比較しなければならなかったからです。さて、聞く者たちの内で、ある者たちは、教えられるために上っていきますが、完全に意味で身体的な意味で上っていくのではありません[15]。他の者たちは下っていきますが、最も下にある諸々の事柄についての最も高尚な理拠を見るために、魂を上に置いています。私の主イエス・キリストご自身が、上っていかれ、また下られました。「実際、下った方ご自身は上った方でもあるのです。その方はすべての天を超えているのです[16]」と。ですからもしもあなたが、最も高いところにある数々の事柄に関して最も高いところへ上られた理拠を理解し、また最も低いところにある数々の事柄に関して最も低いところに下られた理拠を理解しなければならないとすれば、「あなたは、『誰が天に上るのか』と言ってはならない。それは、キリストを下に降ろすことである。あるいは、『誰が深淵に下るのか』と言ってはならない。それは、キリストを死者の内から引き上げることになる。では、聖書は何と言っているか。言葉はあなたの近くにあり、あなたの口の中とあなたの心の中にある[17]」と。あなたはこの言葉を通して、天に上るのです。上り道に関して、「言葉はあなたの近くにあり、また最も下にある諸々の事柄に関して、「言葉はあなたの近くにあるのです」。聖なる人は、あらゆる所にましますみ言葉以外に、何を自分自身の内に持つことができるのでしょうか。実際、「諸々の天の国は、あなたがたの内にある[18]」のです。



[1] Cf. Ps.-Barnabé, Ep.XVI, 9.

[2] Jr.18,1-2.

[3] Cf. Com.Jn VI, 35(18) section 176.

[4] Jr.18,1-2.

[5] Cf.Ex.24,12.

[6] VEkei/, 彼方:プラトン依頼の伝統的な術語。

[7] Ph.2,10-11.

[8] He.8,5.

[9] Cf.1 S.28.

[10] Ep.3,18.

[11] Cf.Mt.16,24.

[12] Ga.6,14.

[13] Jr.18,2.

[14] Cf.Ex.24,12.

[15] Cf.Hom.Gn.IV, 5 (GCS 29,55,11):<<Vide ne adscensionem et descensionem localem sentias>>.

[16] Cf.Ep.4,10.

[17] Rm.10,6-8.

[18] Lc.17,21.