「そして主のみ言葉がわたしに望んでこう言った。『イスラエルの家よ、陶工と同じように、わたしもお前たちを造ることができないとでもいうのか』と、主は言われる[1]」。人はそれぞれ、その能力に応じて書き記されたことを理解します。ある人は、いわば泉の口から汲むように、書き記されたことの理解を表面的に取り出します。またある人は、井戸から水を汲み上げるかのように深い理解を取り出します[2]。そしてどちらも利益を得ることができます。なぜなら同じものが、ある人にとっては泉であり、また別の人にとっては井戸だからです[3]。福音は、サマリア人についての事柄を物語るとき、このことを証しています。なぜならそこでは、同じものが「泉」と言われ、「井戸」と名づけられているからです[4]。そしてある時は、泉が語られ、またある時には井戸が語られているのです。能力のある人は、実体において同じものが、表面的な人には泉であり、より深い人には井戸であることを知るために、よくお考え下さい。

粘土の器が陶工の手から落ちて、また再び作り直されることに関するこれらからの説明のための、わたくしの序言は以上の通りです。これらの事柄をより単純に考えて理解する人たちがいます。わたしは、これらの人々の言葉と説明をあなたがたにご紹介したいと思います。その後で、もしもわたしたちが何かより深い事柄を得ましたら、それを説明することにいたしましょう。

復活に関する事柄がここに示されているかもしれないと、彼らは言っています。実際、もしも粘土の器が陶工の両手から落ちて、陶工が同じ材料、同じ粘土から「また別の同じ器を自分の望むままに[5]」作るとすれば、我々の身体の陶工であり、我々の臓器の造り主である神は、この器がどんな理由であれ転落し砕けたとしても、それを再び取り上げて新たにし、より優美でより美しい「また別の器をご自分のお望みのままに作る」ことができるのです。



[1] Jr.18,5-6.

[2] Cf.Hom.Gen. XIII (SC 7 bis, 310, n.1); Hom.Nombr. XII.

[3] Cf.Pr.5,15-16; Hom.Nombr. XII, 1 (GCS 30, 94).

[4] Jn.4, 6.11-12.

[5] Jr.18,4.

 

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