この説明は、実に見事であるとしましょう。しかし主はみずから、次のように解説し、言っております。「イスラエルの家よ、わたしは陶工と同じように、お前たちを作ることができないのか、と主は言われる。見よ、陶工の粘土のように、お前たちはわたしの手の中にある。やがてわたしは、異邦の民と王国とについて語り、彼らを取り除き、滅ぼす。そしてその民が、彼らに対して語った諸々の悪から立ち返るなら、わたしも、彼らに対して行なうとおもった諸々の悪を悔いる。そしてやがてわたしは、異邦の民と王国について語り、それらを建て直し、また植える。しかし彼らがわたしの声に聞き従わず、わたしの前で諸々の邪悪を行なうなら、わたしは、彼らに対して行なうと語った諸々の前を悔いる[1]」。陶工の家に関して言われたこのことは、誰か一人の人に適用されるのではなく、二つの民に適用されるのをわたしたちは見ます。実際、(神は)先ず、諸国の民について、言語を絶した神秘を理解できる人たちに何かが起こると言うつもりだと言っているのです。「終わりにわたしは、民に語る」。この「終わり」についてご検討ください。そして諸々の罪の故に滅びがもたらされるといわれている最初の民についてご検討ください。(神は)彼らの諸々の罪の故にもたらされる滅びについて語りながら、それにもかかわらず、彼らが悔い改めれば、(神は)彼らに行なうといわれた諸々の禍について悔いると約束されているのです。更に、第二の民に対しては、民の全体を「建て直し、植える」と言っています。そしてこの再建され飢えられた民は、見事な約束を得ていますが、罪を犯す可能性もありますから、(神は)それらのことを語った後で、彼らが諸々の善き業から離れるなら、「わたしは、彼らに対して行なうと言った諸々の善きことについて悔いる」と言われています。

  二つの民は何だったのでしょうか。最初に言われた民は、み言葉によって脅されています。次の民は、約束が与えられています。しかし脅かされたとしても、もしもその民が悔い改めれば、脅かさないというのです。そして約束を与えられたとしても、第二の民が変節し約束に相応しくなくなったならば、第二の民は約束を得ないというのです。この世にいる人間たちに関わる神の経綸は、特にこれら二つの民をめぐっています。あのイスラエルの民が、最初の民となりました。そしてキリストの到来後にこの民が第二の民なりました。最初の民に、神は脅迫を与え、そして脅迫しました。そして私たちは、最初の民に与えられた脅迫を見ました。最初の民は、捕囚となり、彼らの町は破壊されました。聖所は取り壊され、祭壇は取り壊されました。昔の聖なるものはもはや何一つ、彼らのもとに無事に残りませんでした。実際、神は、あの民に向かってこう言っていました。「お前たちは悔い改めよ。しかしお前たちは悔い改めなかった、と。前者の人々にこれらのことが語られた後、神はこの第二の民に向かって、それを建て直すことについて語ります。そしてこの民が再び誤りに陥りかねないのをご覧になります。それ故、この民に対しても脅かしをお与えになり、こう言われるのです。わたしは、建設について、植え付けについて、耕作について、先に語ったが、この民までも罪を犯そうとするなら、わたしが諸々の罪の故に前の民に向かっていったことが、この罪を犯す民対しても降りかかる。彼らは、悔い改めないなら、苦しむことになる。あなたも、聖書全体をお調べください。そうすればあなたは、その大部分が、これらの二つの民について言われた事柄に関わっているのを見出すでしょう。神は、族長たちを選び出し、彼らに約束を与え、族長たちの部族出身の民をエジプトから導き出し、罪を犯す彼らを寛大にご覧になり、みずから父親のようになって彼らを懲らしめ、彼らを導き、彼らに約束の地を与え、然るべきときに彼らに預言者を遣わされ、彼らを懲らしめ、諸々の罪から彼らを回心させ、彼らを常に忍耐深く見守り、彼らを癒す人々をお遣わしになりました。そして遂に、医者の長、諸々の預言者たちに優る預言者、諸々の医者に優る医者が来られたのです。そしてこのお方が来られると、彼らはこのお方を(役人に)引き渡し、「こんな男は地から取り除け、取り除け」と言いながら、あるいは「その男を十字架に付けろ、十字架に付けろ」と言いながら、彼を殺してしまったのです[2]。直ちに神の監視がその民の下に届きました。そしてわたしのイエスが十字架に付けられた場所は荒れ地となり[3]、神は、別の民をお選びになりました。「働き手は僅かしか」いないのに、「収穫が」どれほど「豊か」であるかご覧ください[4]。そればかりか神は、引き網が常にこの世の海に投げ込まれるように取り計らわれているのです。そしてあらゆる種類の魚が集められます[5]。神は、「多くの漁師」を遣わされ、「多くの狩人」を遣わされます[6]。狩人たちは、「あらゆる山」から狩り出し、「あらゆる丘」から狩り出すのです[7]。諸国の民の救いに関するオイコノミアがどれほど大きなものであるかをご覧ください。

  「それ故、神の慈しみと過酷さを見よ」。最初の堕落した民には過酷さが望む。そして第二の民であるお前には、「もしもお前が慈しみの内に留まるなら」、約束と慈しみが望む。「なぜならお前も切り倒されるかもしれないからだ[8]」。確かに斧は、木の根元だけに横たわっていたのではないのです。斧が再び来る準備はできているのです。ところで、「斧が木の根元に横たわっている」と、わたしのイエスは言っています。イエスは、かつて、斧が置かれたイスラエルについて預言したのでした。彼は、実を結ばない木の斧で、こう言っておりました。「既に木の根元に斧が置かれている」と。そこで実を結ばなかった木は、ことごとく切り倒されて、火の中に投げ込まれ[9]、懲らしめを受けました。しかし他方で、最初の作物と似たまた別の作物がありました。その作物についてこう言われております。「お前は、それらをお前の嗣業の山、お前のために用意された居住地に持っていき、それらを植えよ[10]」。神は、ご自分の民を「その嗣業の山に」導かれました。わたくしは、ユダヤ人たちのように魂のない質料の中にこの山を探したりはしません。キリストが山なのです[11]。わたしたちは、このキリストの内に植えられたのです、この方の内に根づいたのです。ですからあなたがたは、主人が寛大であったとしても、彼が来てこう言わないのかお考え下さい。すなわち「この無花果を植えて、もう三年が過ぎた。それなのにこれは実を結ばなかった。切り倒してしまえ。何のためにこれは地面を台無しにしているのだ[12]」と。集会に来ても実を結ばない人は、美しい大地、教会の神秘であるキリストを台無しにしているのです。



[1] Jr.18,6-10.

[2] Cf.Jn.19,15.6.

[3] Cf.Jr.40(33),10.12; Ap.11,8.

[4] Cf.Mt.9,37.

[5] Cf.Mt.13,47.

[6] Cf.Hom.Jr.XVI, 1, 45.

[7] Jr.16,16.

[8] Mt.3.10.

[9] Cf. Mt.3.10.

[10] Ex.15,17.

[11] Cf. Hom.Jr.XIII, 3.

[12] Cf.Lc.13,7.

 

次へ