「最後にわたしは、民に、また王国にも話しをしよう」。この「最後」という言葉は、単純に<言われている>ように見えますが、しかし次のようなことを言っているのです。「わたしは、民や王国にも話しをしよう」においては、この「最後」とは、次のようなことです。「わたしは掘り倒そう」という言葉は、(これを)「最後」として、最初の民に言われたものです。第二の民には、「わたしはお前を建て直そう」という言葉が言われております。また、「わたしは根扱ぎにしよう」言葉は最初の人々に言われました。そして「わたしは植えよう」という言葉は、第二の人々に言われているのです。

「最後」と言われているのですから、果して最後はおとずれたのでしょうか。思い直しをしない神が、聖書によれば「思い直す」と言われております[1]。そこで私たちは、その言葉に注意を向けることにしましょう。そしてどのような意味でそのようなことが言われたのかを私たちが弁明できた暁には、次の言葉を受け入れることにいたしましょう。(神は)次のように言われています。「最後にわたしは、民や王国に対して、彼らを取り除き滅ぼすと言おう。そしてもしもその民が、わたしが語った諸々の悪から立ち帰るなら、わたしも、彼らに対して行なおうと考えた諸々の悪について思い直そう。また最後にわたしは、民あるいは王国に対して、建て直し、そして植えると言おう。もしも彼らが、わたしの声を聞かずに、わたしの前で邪悪の数々を行なうなら、わたしは、彼らのために行なうと言った諸々の善きことについて思い直そう[2]」と。わたしたちは、神の思い直しについて弁明するように求められています[3]。確かに思い直すことは、神についてばかりでなく、賢者についても、非難されるべきことであり、相応しくないことであるように思えます。実際、わたくしは、思い直しをする賢者を考えることができません。思い直しをする人は、言葉の通常の使用による限り、よく決断しなかったことについて思い直しをするのです。ところが神は、未来の事柄を予めご存知で、よくない決断をすることはあり得ませんし、またその決断について思い直すことができません。では、どうして聖書は、「わたしは思い直す」という神の言葉を導入したのでしょうか。わたくしはまだ、そのことについて語っておりません。『サムエル記』にも、「わたしはサウルに油を塗って王としたことを悔いている[4]」という言葉の内に(思い直しのことが)語られていますし、一般に神について次のように言われています。すなわち、「またわたしは、諸々の禍について思い直す[5]」と。

しかしわたしたちは、神について何か一般的なものを学ぶことができないか考えてましょう。ある場合には、「神は、人間のように妨げられず、人間の子のように脅かしを受けない[6](と言われています)。そしてわたしたちは、この言葉によって、神が人間のようではないということを学びます。しかし他の言葉によれば、神は人間のようであることを学ぶのです。すなわち、「主なるお前の神は、ある人間が自分の息子を懲らしめるかのように、お前を懲らしめた[7]」と言われており、また「(神は)、人間が自分の子に合わせるように、(ご自分を人間に)合わせられた[8]」と言われています[9]。ですから聖書が、神そのものについて語って[10]、神のオイコノミアを数々の人間的な事柄に編み込まないときには、聖書は、神が「人間のようではない[11]」と言っているのです。実際、「神の偉大さには限界はない[12]」のです。そして「神は、すべての神々に勝って恐るべき[13]」方なのです。「神のすべてのみ使いは、神をたたえよ。神のすべての力は、神をたたえよ。太陽と月は、神をたたえよ。すべての星と光りは、神をたたえよ[14]」。そしてあなたは、「神が人間のようでない[15]」ことに一致する数多くの言葉を聖書から引き出して見ることができるでしょう。しかし神のオイコノミアが人間の事柄に編み込まれるとき、神は、人間の精神と振る舞いと言い回しをお取りになるのです。わたしたちは、二歳の子どもと対話をする場合、子供のためにたどたどしい言葉を使います[16]。実際、わたしたちは完全な大人の年齢にふさわしい品位を保ちながら子供たちに声を掛けても、へりくだって子供たちの言葉に合わせないなら、子供たちはわたしたちの話を理解できないのです。神が人類のことを、特にまだ「幼児」の段階にある人たちのことを配慮する場合には[17]、神についても何かしらこれと同じようなことをご理解ください。わたしたち完全な大人たちが、乳児のために言葉を変え、また彼らのためにパンを独特な仕方で表現し、飲むことを別の言い方で名づけている有りさまをご覧ください。わたしたちはその際、同年輩の大人たちに対して使っているのと同じ完全な大人たちの言葉を使うのではなく、何か別な子供っぽい幼稚な言葉を使います。またわたしたちが子供たちに向かって衣服を名指す場合にも、一種の幼稚な言葉を作って、別の名前をそれらの衣服に適用します。では、その時わたしたちは、不完全な人間なのでしょうか。そしてもしも誰かがわたしたちと子供の対話を聞いた場合、その人は、この老人は理性を失って、自分のあごひげや年齢を忘れてしまったのだと言うでしょうか。むしろ子供と遣り取りする上で、話をする人は、老人の言葉や成人の言葉を使わずに、子供の言葉を話すことが許されると言うのではないでしょうか。

神もまた、子供たちに話をするのです。「見よ」と救い主も言います。「わたしと、神がわたしにお与えになった子供たち[18]」。老人が子供に向かって子供のように話すとき、あるいはもっとはっきり言って、乳飲み子のように話すとき、その老人に対して、あなたはご自分の息子の「振る舞いをまねて[19]」、乳飲み子の振る舞いをまね、その態度を取ったと言われるかもしれません。どうか、「お前の神なる主は、人間が自分の息子をまねするように、お前の振る舞いをまねられた[20]」と述べる聖書の言葉を同じようにご理解ください。どうやら、ヘブライ語からの翻訳に携わった人たちが、ギリシア人たちの言葉の中に対応するものを見出すことができなくて、多の多くの場合にように(言葉を)新しく作って、この箇所を「お前の神なる主は、お前の振る舞いをまねられた」、すなわち、今わたくしが挙げた例にあるように「人間が自分の息子の振る舞いをまねるように、お前の神は」、お前の挙動をお取りになったと言っているように思えるのです。ですからわたしたちが悔い改めた場合、神は、悔い改めるわたしたちと対話なさるとき、思い直したと言われるのです。そしてわたしたちを脅かされるとき、先を予見しているような振りをしません。むしろ幼児に話しをしているかのように脅かされ、「すべてのものを生まれる前に[21]」予知しているような振りをしません。神は、言ってみれば、子供に応えるとき、将来のことを知らないような振りをするのです。確かに神は、民を、その罪の故に脅かされ、次のように言っています。「もしもこの民が思い直すなら、わたしも思い直そう[22]」。おお、神よ。あなたが民を脅かされたとき、民が思い直すか思い直さないかご存知なかったのですか。では、どうでしょう。あなたが約束されたとき、あなたが言葉を向けた人間や民が約束の数々に相応しくあり続けるか否かをご存じなかったのですか。いえ、神はそういう振りをされただけなのです。

またあなたは、その他にも聖書の中に、人間的な箇所を多く見出すことでしょう。たとえば、「イスラエルの子らに言え。おそらく彼らは聞いて、思い直すだろう[23]」という言葉です。神は、<思い惑って>「おそらく彼らは聞くだろう」というこの言葉を言ったのではありません。神は、「おそらく彼らは聞き、思い直すだろう」と言うために、思い惑ったのではなく、あなたの自由意志がすっかり明らかになり、もしも神がわたしの滅びるのをあらかじめご存知なら、わたしは滅びるに違いないとか、もしもわたしが救われるのをあらかじめご存知なら、わたしは絶対に救われるに違いないと言わないようにするためなのです[24]

ですから神は、あなたの身にこれから起こることについて知らない振りをしいるのです。それは、あなたが思い直すか否かについてあらかじめ把握したり予知したりしないことによってあなたの自由意志を尊重するためだったのです。そして神は、預言者に向かって言われます。「語りなさい。おそらく彼らは思い直すだろう」と。実際、あなたは、神が人間の「振りをする」ことについて言われたそのたこれに類する無数の箇所を見出すでしょう。もしもあなたが神の「憤り」や神の「怒り」を耳にしても、その怒りや憤りを神の情念であると見なしてはなりません[25]。幼児が回心し改善するための言葉遣いのオイコノミアがあるのです。なぜなら私たちも、子供たちに恐ろしい顔を向ける場合、気分からするのではなく、オイコノミアからするからです。もしも私たちが幼子にたいして心の優しさを私たちの顔に出して、幼子に対して私たちが抱いている慈しみをあらわにし、幼子の回心のために目線を変えて、態度を変えないなら、私たちは幼子をだめにし、もっと悪くしてしまうでしょう。ですから、同じように神は、あなたが回心して改善されるようになるために、怒っていると言われ、また憤っていると言うのです[26]。実際、神は怒りもしなければ、憤りもしません。むしろあなたの方が、神の怒りと言われるものよって懲らしめを受けるとき、怒りや憤りに苦しみ、悪のゆえの耐え難い苦しみに陥ることになるのです。



[1] Cf.Jr.18,10.

[2] Cf.Jr.18,7-10.

[3] Cf. C.Celse IV, 71, 1-4.

[4] 1 S.15,11.

[5] Jl. 2,13.

[6] Nb.23,19.

[7] Cf.Dt.8,5.

[8] Cf.Dt.1,31.

[9] Cf.Com.Mt.XVII,17; Philon, Quod Deus sit imm. Section 53-54; Hom.Ez,VI,6(GCS 33, 384); Hom.Nb.XXIII,2 (GCS 30, 213); Frgm.Jn LI (GCS 10, 526).

[10] 神のそれ自体として考察することをテオロギア(qeologi,a)と言い、神による被造物への配慮をオイコノミア(oivkonomi,a)と言う。

[11] Nb.23,19.

[12] Ps.144,3.

[13] Ps.95,4.

[14] Ps.148,2-3.

[15] Nb.23,19.

[16] Cf.C.Cels IV, 71.

[17] Cf.1 Co.3,1.

[18] Is.8,17(=He.2,13).

[19] Cf.Dt.1,31.

[20] Dt.1,31.

[21] Dn.1 (13), 42.

[22] Cf. Jr.18, 8, 10.

[23] Cf. Jr.33.2-3.

[24] Cf. Philocalia, ch.25(Fragm.Rm).

[25] Cf. Frgt sur Jn LI (GCS 10, 526, 4); Hom.Nb. XXIII, 2 (GCS 30, 213).

[26] Cf. C.Celse IV, 72.

 

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