13  預言者が打たれたのに続いて、たとえば使徒やその他の人たちが打たれることについて述べ、またイエスご自身に関する事柄を提示することは、理にかなっているのです。さて「パスコルは、預言者エレミアを打ち、彼を、上階のベニヤミンの扉にある穴に投げ込んだ[1]」とあります。穴は、上階のベニヤミンのところにありました。ベニヤミンの嗣業地はエルサレムです。エルサレムには、神の神殿がありました。それは、聖書の朗読に<耳を傾けることができる人が>『ヨシュア記』に書き記された嗣業についての記述から見出すことができる通りであります[2]。それゆえ神殿はベニヤミンの嗣業地にあったのですから――ところでベニヤミンとは、右手の子と解釈されます。なぜなら神の神殿について右手はまったくないからです――、それで彼は、「主の家の高間のベニアミンの門にある穴に」投げ込んだのです。主の家には「高間」があったのに、彼は預言者を「穴に」投げ込みました。私たちも次のようにしようではありませんか。すなわち、いまエレミアを連れて、「主の家の高間」に昇りましょう。私は、上に高められた高尚な理解が高間であることを、聖書<から>示してみましょう。なぜなら聖書は、聖なる人たちが預言者を高間で受け入れたことを証しているからです。『サムエル記』の第一巻には、女やもめが預言者エリアをシドンのサレプタで迎えたと書き記されています。彼女は、自分の「高間で」預言者を清めました[3]。また同書の第二巻では、エリシャを迎えた女が、彼のために「高間に」家を準備しました[4]。これに対して罪人のオコジアは、「高間」から落ちました[5]。イエスは、あなたにも、屋上から降りないように命じています。実際、彼は、これこれ然々のことが起きたなら、「屋上にいる者は、自分の部屋にあるものを取りに行くために下に降りてはならない[6]」と言っております。迫害の渦中にある人が、高間に昇っていっても差し障りありません。むしろ屋上から「自分の家にあるものを取りに降りない」ようにしなければならないのです[7]

ですから、高間にいることはよいことです。屋上にいることはよいことです。どこか上の方にいることはよいことです。称賛すべき使徒たちは、彼らの言行録に書き記されている通り、一つ所に集まって、祈りと神のみ言葉の専念していたとき、彼らは、「高間」にいました[8]。そして彼らは、高間にいたわけですから、下にはいなかったのです。それで「諸々の下が火のように彼らのところに分けられるのが見られた[9]」のです。ペトロもまた、祈りを神に捧げたとき、「屋上に上りました[10]」。もしも屋上に上っていなかったら、天から「四隅を吊るされた亜麻布のように器が降りてくる」のを見なかったでしょう。また施しをしたタビタも――「彼女の名は、解釈すると、ドルカスと呼ばれます」――、彼女も下にはおりませんでした。彼女は「高間に」いました[11]。ペトロはそこに昇り、彼女を死者の内から復活させたのです。イエスもまた、あの祭り、すなわち私たちのその神秘を祝っている過越の祭りを、弟子たちと共に祝おうとされたとき、弟子たちはこう尋ねています。「私たちはどこで、あなたのために過越の祭りの準備を準備致しましょうか」。その時、イエスは、こう答えております。「歩いていると、水の入った壷を運ぶ男に出会う。お前たちは、その人について行きなさい。その人はお前たちに、掃除され準備のできた広々とした絨毯敷きの高間を見せてくれるだろう。お前たちは、そこに過越の祭りを準備しなさい[12]」。したがってイエスが望まれたように過越の祭りを行なう人は、高間の下にいるのではありません。イエスと共に祭りを祝うものは誰でも、広々とした高間、掃除された高間、飾られ準備のでき高間にいるのです。もしもあなたがイエスと共に過越の祭りを祝うために(高間に)のぼるなら、イエスはあなたに、新しい契約の杯と祝福のパンをお与えになり、イエスご自身のおん体とおん血をお恵みになるのです[13]。ですから私たちは、あなた方にお勧めします。高みに上ってください[14]。あなた方の「目を高みに上げてください[15]」。私も、神のみ言葉を教えようとするとき、み言葉は私にこう言っているのです。「高き山に登れ、シオンに良い知らせを宣べ伝える人よ。あなた方は恐れてはならないとエルサレムに良き知らせを宣べ伝える人よ、尽くして汝の声を力を高めよ[16]」と。

以上は、パスコルに関して述べてみたものです。彼には、「主の家の上階のベニヤミンの扉に高間があった」にもかかわらず、預言者を上らせず、かえって彼を下にある「穴に投げ込んでしまいました」。



[1] Jr.20,2.

[2] Cf.Jos.18,10-24.

[3] Cf. 1 S.17,19.

[4] Cf. 2 S.4,10.

[5] Cf. 2 S.1,2.

[6] Mt.24,15-17.

[7] Cf.Hom.Jug. IX 11 (GCS VII, 10).

[8] Ac.1,13.

[9] Ac.2,3.

[10] Ac.10,9.

[11] Cf.Ac.9,36-37.

[12] Cf.Mt.26,17; Mc.14,12-15; Lc.22,8-12.

[13] Cf.1 Co.10,16.

[14] Cf. Is.37,24; 40, 9.

[15] Cf.Is.37,23.

[16] Is.40,9.

 

次へ