15  さて、聖書の一節(の説明)が終わりましたから、ここでもう一つの節について始めることにいたしましょう。またしてもこの一節は、その言葉の始めから、そう簡単には扱えない事柄を含んでおりますので、私たちは、この節に注意を向けながら、再びイエスのお出ましをお願いして、彼がより判然と明らかに来てもらうようにお願い致しましょう。それは、イエスがお出でになって、私たち皆に、預言者が、その名に相応しく当然のこととして真実を語っているのか、それとも、聖なる預言者にういて言ってははならないことですが、預言者が偽りを語っているのかを教えてくださるようにするためです。預言者は、神にこう言っています。「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました。あなたは力強く、力がありました。私は、笑い者にされ、私は一日中、嘲られました。私は、私の辛辣な言葉の故に笑われ、不安と惨めさを招いたのです。なぜなら主の言葉は、私にとって非難となり、毎日降りかかる嘲りになったからです。そして私は言いました。『私は主の名を決して語るまい。私は主の名において決して語るまい』と。すると私の心の中に、灼熱の火のようなものが生まれ、私の骨の中で燃え上がりました。私はいたるところから苦しめられ、耐えることができません。私は、輪になって集まってきた多くの人たちの非難の声を聞いたからです」。すなわち彼らは、こう言っているのです。「彼の友人たちよ、集まって、彼に対して謀を企てようではないか。あなた方は、彼の意図を見極め、彼が欺かれないか見てみなさい。そうすれば私たちは彼に勝り、彼から私たちの報いを得ることになる[1]」。しかしこれらのことを彼らが言ったとき、預言者はこう言っております。「そして主は、力強い戦士のように私と共にいる。それ故、彼らは(私を)追い求めたが、理解することができなかった。彼らは甚だしく辱めを受けた。なぜなら彼らは、自分たちの不面目を理解しなかったからだ。そして彼らの不面目は、代々に忘れられることはない[2]」。

これが第二の朗読の節です。一体どうして預言者は、「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と言うのでしょうか。神は欺く方なのでしょうか。どのようにこの言葉を扱ったらよいか、私は迷ってしまいます。もしも私が神とそのみ言葉を通して、この言葉に関して何かを見通すことができるとすれば、これから言われることには、高貴な経綸が必要です。預言者は、欺かれるのが終わると、「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と言っています。それは、彼が、欺きによって敬神への初歩の教育を受けたということなのです。もしも彼が、前もって欺かれなかったとすれば、後になってこの欺きを悟るようになるために、敬神への初歩の教育を受けることはできなかったでしょう。ここで、この問題に関して何か有益なことを言うには、一つの例をあげれば十分でしょう。私たちは、子どもたちを教育するとき、子どもたちに話をしますが、大人に向かって話をするようにはしません。むしろ私たちは、教育を必要としている子どもとして彼らに話しをします。そして私たちは、子どもたちに嘘をついて恐がらせ、子どもたちの粗放さがなくなるようにします。また私たちは、子どもたちの幼さゆえに彼らに欺きの言葉を使って恐がらせますが、それは、欺きによって彼らが恐がって、教師たちのもとに通い、彼らの進歩に有益なことをすると約束させ、またそうするようにさせるためなのです。私たちは皆、神の前では子どもです。そして子どものように欺かれることを必要としています。それゆえ、私たちをいとおしんでくださる神は、たとえ時期が来るまで私たちが欺きに気づかなくても、私たちを欺くのです。それは、私たちが欺きを必要としない幼年期を過ぎて、業によってしつけられないようにするためです。子どもを恐れさせることと、年齢が進んで幼年期を過ぎることとは別のことです。た人々を恐れさせる方法とはそれぞれ別なのです。実際、私は、欺きによって子どもを教育し<・・・>することができます。それは、欺く神が次のように言うためです。「私は、彼らの艱難の話をすることによって彼らを教育する[3]」と。

私は、歴史から例を引いて、神が救いのためにどのようにして欺き、罪人が何らかの言葉を聞かなければこれまで行なってきたことをやめるようにするために何を語るのかを示すことにします。「あと三日もすれば、ニネベの町は、滅ぼされる[4]」という言葉は、真実を語っていたのでしょうか。それとも真実を語ったものではなく、回心のための欺きだったのでしょうか。回心が行われなければ、もはやこの言葉は欺きではなく、真実になっていたでしょう。そしてニネベの町に破壊が襲ったことでしょう。欺かれて言われたことを真実だと信じて恵みを受け、滅ぼされないようになることと、言われたことは実現せず、欺かれはしないと思い、言われたことは起こり得ないと理解して、言われたことを欺きとして軽視することによって、「あと三日もすればニネベの町は、滅ぼされる」という災難を受けることはありませんが、敢えて言いますと、この「あと三日もすればニネベの町は、滅ぼされる」という言葉よりもはるかに残酷な災難を受けることとは、聴き手の人たちにかかっているのです。実際、仮定として申し上げますが、罪を犯したニネベの町の人たちが、悔い改めをしなかったとしても、おそらく「あと三日もすればニネベの町は、滅ぼされる」という言葉は、実現しなかったでしょう。しかしこのことが起こらなかったとしても、これよりも悪いことが起こるでしょう。すなわち彼らは、永遠の火に渡されるのです。

それゆえ、子どもとして教育される人々に律法に即して言われた懲らしめと、「時の充満が訪れた[5]」人々に対して書き記された懲らしめとは、別物なのです。律法に従って罪人たちに与えられる懲らしめと、福音に従って罪人たちに与えられる懲らしめを比べてみてください。そうすれば、前者の人たちは、幼児として、彼らに相応しい懲らしめの話を聞きましたが、私たちは、大人として、より厳しい懲らしめの話を聞くことがお分かりになるでしょう[6]。かつて姦淫を犯した男女には、ゲヘナの脅しも、永劫の火の脅しもありませんでした。その代わり石による石打の刑を受けねばなりませんでした。「全会衆は、彼を石打にしなければならない[7]」とあります。姦淫をしているところを見出された男女は、この世を離れる際に、こう言わなければなりません。この言葉は、私にも向けられていますように。民は、私に石を投げますように。私が永劫の火に定められていませんようにと。実際、姦淫を犯す者だけでなく、自分の兄弟に「ばか者」と言う人も、「火のゲヘナ」の罰を受けるのです[8]。しかし自分の兄弟に「ばか者」と言う人が、「火のゲヘナの罰を受けねばならない」とすれば、姦淫を犯す人はどのような罰に服するのでしょうか。私は、火のゲヘナよりも何か大きな罰を探してみましょう。おそらく、不本意に(罪を犯してしまって)清めを受けることのできる人たちにもゲヘナはあると言うことができるかもしれません。しかし善人についても、義人についても、「神が、ご自分を愛している人たちに備えてくださったことは、人間の心に浮かばなかった[9]」のと同じように、売春をしたり姦淫をしたりして罪を犯した人々に(神が)備えたものは、「人の心に浮かばなかった」のです。実際、自分の兄弟に「ばか者」と言う人が受けることになる罰が心に浮かんだとすれば、もっと悪いことを行なった罪人たちに用意されているものは、心に浮かんだ罰よりもひどいものであるのは明らかです。しかし私は、ゲヘナよりも大きな大きな罰を考えることができません。しかし、姦淫を犯し人たちに用意されている罰は、ゲヘナよりも大きなものであるに違いないと信じています。

こうして私は、律法に規定された残りの懲らしめにも到達することになります。そしてこれらの残りの懲らしめに符合する使徒の言葉を取り上げてみることにしましょう。使徒の言葉は、私が罪を犯せば、私に降りかかるであろう私の懲らしめについて沈黙しています。私が罪を犯すというのは、私が、「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」という言葉を望まず、巧みに欺かれることを受け入れていないからです。では、使徒は何と言っているのでしょうか。「モーセの律法を破ったものは、二人または三人の証言によって死ぬ。あなた方は、神のおん子を踏みにじったものはどれほど重い報いを受けるか考えましたか[10]」と。パウロよ、この報いについて語ってください。私はその報いを口にしましたが、それについて語っていません。パウロは、福音における罪人たちの懲らしめについての問題が、語られたものよりも大きなもの、聞かれたものよりも大きく、理解されたものよりも大きなものだと言っているのです。そういうわけで、預言者は、子どものように手引きされ、話を聞いて恐れを抱き、教育を受けました。そしてその後で、彼は大人になってこう言ったのです。「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と。あなたも、子どもである限り、脅かしを恐れてください。それはあながた、脅かしを超えるもの、永劫の罰、不滅の火を受けないようにするためです。あるいは正道を甚だしく脱して生活してきた人々に残されているかもしれない、何かこれよりもおきな罰を受けないようにするためです。私たちはこれらのいずれも決して体験しないようにしましょう。かえって私たちは、キリストにおいて完成された大人となり、天にある諸々の祝祭、キリスト・イエスにおいて捧げられる天のパスカに相応しいものとされるようになりましょう。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン」。



[1] Jr.20,7-11.

[2] Jr.20,11.

[3] Os.7,12.

[4] Jon.3,4.

[5] Ga.4,4.

[6] Cf.Ep.4,13.

[7] Lv.24,16; cf. Dt.22,24.

[8] Mt.5,22.

[9] 1 Co.2,9.

[10] He.10,28-29.

 

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