第20講話

再び、また別の方法で「主よ、あなたが私を欺かれたのです。そして私は欺かれました」から、「内蔵と心を知っておられる」まで。


 

  神について書き記されたすべてのことが、たとえそのままでは不適切であったとしても、それらの箇所は、慈しみ深い神に相応しいものであると理解しなければなりません。実際、誰が、神は怒るとか、神は憤りを現すとか、神は思い直される、はたまた神は眠りに陥るという表現を、文字通り神に当てはめるでしょうか。それこそ不適切なことだと、人は言うでしょう。しかしこれらのことは、「闇の言葉[1]」を理解することのできる人のもとでは、神に相応しいものとして見出されることになるのです。確かに神の怒りは、実りのないものではありません。それどころか、神のみ言葉が教育するように、神の怒りも教育するのです[2]。み言葉によって教育されなかった人たちを、神は怒りで教育します。神は、み言葉と名づけられるものをお使いになるのと同じように、怒りと言われるものをお使いになるのは必然なのです[3]。また、神のみ言葉は、万民の言語のようなものではありません。実際、どんな人の言葉も、「生ける[4]」み言葉ではありません。どんな人の言葉も、「元に」あの方「と共にあった」み言葉ではありません。このみ言葉は、何らかの元に由来するに過ぎないとしても、あの方のみ言葉であり、あの方と共にありました。同じように神の怒りも、・・・どのような人の怒りでもありません。神の言葉は、いかなる人のすべての言葉とも無縁なものを持っています。また(み言葉が)神であること、「生ける」み言葉であること、それ自体で存在すること、おん父に仕えることも、(人間の言葉とは)無縁なものを持っています[5]。それと同じように、ひとたび神の怒りが名指されると、その神の怒りは、怒りに捕われた人のすべての怒りとは異なった異質のものを持っているのです。また同様に、神の憤りも、何かしら独自のものを持っています。なぜなら、この場合の憤りは、譴責によって譴責された人を回心させようとお望みになる神の意図から発せられるからです。み言葉は、教育するのと同じように、譴責もされます。しかしみ言葉が譴責するのと同じような仕方で、憤りは譴責するのではありません。み言葉の譴責によって利益を受けない人々が、怒りによる譴責を必要とするのです。

  私は、それ自体では不適当な神の後悔のようなものがあると言いました。なぜならこう書かれているからです。「私は、サウルに油を注いで王としたことを後悔している」と。しかしあなたは、この後悔ついても相応しく探究しなければなりません。そして神の後悔が、後悔する人たちの後悔と何らかの親近性を持っている思わないでください。神のみ言葉が何らかの特質を持っており、神の怒りが何らかの特質を持っており、神の憤りが何かしら超越的なものであって、同名のものとはまたく親近性がないのと同じ意味で、神の後悔は、私たちの後悔と同名なのです。ただし、「名前だけが共通している点で同名であって、実体の定義は異なる[6]」のです。ですから神の憤りとどのような人の憤りとも、名前だけが共通しているだけであり、神の怒りとどのような人の怒りとも、名前だけが共通しているのです。後悔についてもこのように理解しなければなりません。そして能力のある方は、神の後悔が何をもたらすか探究してみてください。それは何をもたらしたのでしょうか。(神は)、掟に反して統治していたサウルを倒し、民のために、神のみ心にかなった王をお立てになったのです。実際、神は、この善き後悔のゆえにこう言っておられます。「私は、私の心にかなう男、エッサイの息子ダビデを見出した[7]」と。



[1] Cf.Pr.1,6; De Princ.,IV,2,3(10), GCS 22, 310,1; Com,Jn II, 28(23); C.Celse III,45,44(SC 136,108); VII,10,22(SC 150,38); Frgm de Prov. 1,6 (PG 13, 21D); Sel.Ps.I,1 (PG 12, 1077C) i.e.Philocalie II,2(Robinson, p.38,2).

[2] Cf.Com.Matth.XV,11(GCS 40,379,17); Clemens, Paed.I,8,74,4.

[3] Cf.Com.Matth.XV,11;C.Celse IV,72,4(SC 136,362); Frgm LI de Jn 3,36(GCS 10, 526,5).

[4] Cf.De Princ.I,2,3, GCS 22, 30, 16).

[5] Cf.Com.Jn. I, 34 (39) s243-244; la même expression est employée ibid. I, 39 (42) s.291.

[6] Citation d'Aristote, Catég.I.

[7] Cf.Ac.13,22 (Ps.88,21).

 

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