しかしこれらのことはみな、ほんの前置きにすぎません。なぜならエレミア書の朗読の初めは、次のようになっているからです。「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました[1]」と。すべての人の憤りがよくないものであるのに対して、神の憤りは譴責するものであるのと同じように、またすべての人の怒りが厳しいものであるのに対して、いわゆる神の怒りが教育的なものであるのと同様に、また私たちすべての後悔が、後悔する前の思いなしの弱さを責めるのに対して、神の場合、その後悔は神を責めるのではなく、その後悔の対象である外的な諸事物を責めるのと同じように、神の欺きも、嘘をつく我々の欺きとは異質のものであると理解しなければなりません。

では、神の欺きとはどのようなものでしょうか。預言者はだまされるのが止んだとき、この欺きに気づき、だまされることから引き出される利益を知ってこう言っています。「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました[2]」と。先ず私たちは、ヘブライの伝統を使うことにしましょう。この伝統は、キリストの信仰の故に逃げ出し、律法からより高いものに上り、私たちの住んでいるところに来たある人物によって私たちにもたらされたものです[3]。さて、彼は、聴き手の人たちを「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」という言葉に手引きすることのできる説明や神話のようなものを語っていました。彼は、およそ次のようなことを言っていました。神は専制を振るうのではなく、治めるのです。そして治めますが強制せず、説得します。また神は、ご自分の統治下にある人たちがみずからの意思でご自分の采配に身を委ねるように望んでいます。それは、人の善が強制によってではなく、その人の意思によって行われるようにするためです。このことをパウロも知っていて、フィレモンに当てた手紙の中で、オネシモについてフィレモンに言っています。「あなたの善が強制によってではなく、自由意志によって行われるために[4]」と。たしかに万物の神は、いわゆる善を私たちの中で行って、私たちが強制的に施しをし、強制的に節制をするようにすることができるでしょう。しかし神はそのようなことは望んでいません。それでパウロは、私たちのなすことが自由意志によってなされるように、私たちのなすべきことを「悲しみや強制によって」行わないように命じているのです。ですから神は、言ってみれば、神がお望みになることをどのようにすれば人が自ら進んで行うようになるかを探しておられるのです。

ですから伝承は、大体次のようなことを私に言っていたのです。神は、エレミアを遣わしてすべての異邦人に、そして異邦人よりもまず(ご自分の)民に預言させようと望まれました。しかし預言は何かしら陰鬱なものを含んでいたので――実際、これらの預言は、各人がそれぞれにふさわしく受ける罰を告げていました――、それにこの預言者がイスラエルの民によからぬことを告げるつものないことをご存知だったので、次のように取り計らって言いました。「この杯を取りなさい。そして私が遣わすすべての民に飲ませなさい[5]」。神は、エレミアに杯を取るように命じ、「混じり気のないぶどう酒の杯[6]」をとるように彼を促してこう言っているのです。「そして私は、お前に、混じり気のないこのぶどう酒の杯を取らせ、すべての民に遣わす」と。そしてエレミアは、すべての民のもとに派遣され、彼らに怒りの杯、懲らしめの杯を給仕せよと言われたのを聞きましたが、イスラエルまでも、懲らしめの杯を飲まねばならないとは思いもよらず、欺かれ、すべての民に飲ます杯を取ったのです。彼は、杯を取ってから(初めて)次の言葉を聞きました。「そしてお前は、まず、エルサレムに飲ませよ[7]」と。そこで彼は、別の命令を期待しましたが、また違う命令が下されました。そこで彼は、「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と。

伝承は、この説明と同じようなことをイザヤにおいても与えています。彼も、(神が)民に向かってどのようなことを語れと命じるつもりなのかわからずに、神の言葉を聞いています。聖書によると神はこう言っています。「私は誰を遣わそうか。誰がこの民のところに向かうだろうか」。すると彼はこう応えています。「ご覧ください。<私が>おります。私をお遣わしください」。彼は、こう聞きます。「行きなさい。そしてこの民にこう言いなさい。お前たちは耳で聞いても理解せず、目で見ても見ないと。なぜならこの民の心は、鈍くなってしまったからだ」云々と[8]。ですから彼は、何を預言しなければならないかわからず、また民にあれこれの脅威を告げばならないということに気づかなかったので、「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください」と言ったのです。次にこう言われています。「叫べと言う方の声がする[9]」と。しかし彼は、命じられたことを進んでする人のようには応えず、「何を叫びましょうか」と言っています。彼は、「言って、この民に言いなさい。お前たちは耳で聞いても理解しない」という前の預言の場合と同じようなことをもう一度聞かされるのではないかと心配していたのです。では、「私は何を叫ぶべきでしょうか」。「すべての肉は草、そのすべての栄光は野の花のようなもの」などとあります[10]。彼は、これらの言葉の中で、イスラエルに反することを聞きませんでした。



[1] Jr.20,7.

[2] Jr.20,7.

[3] Cf.Ep.ad Julium Africanum, 7.

[4] Phm.14.

[5] Cf.Jr.32,15(25,15).

[6] Jr.32,15.

[7] Cf.Jr.32,18(25,18).

[8] Is.6,8-10.

[9] Is.40,6.

[10] Is.40,6.

 

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