「私は、違反と哀れを呼び求めるでしょう[1]」とあります。義人は、神を呼び求めます。また不正な人も知恵を呼び求めます。なぜなら「あなた方が私を呼び求める時が来る。しかし私は、あなた方の声に耳を傾けない[2]」とあるからです――この場合、不正な人たちが呼び求めていますが、義人たちも、知恵を求めるときがあることは明らかです――。そして「主のみ名を呼び求める人はみな、救われる[3]」とあります。そしてここでも預言者は、違反を神として、哀れを主として、「私は違反と哀れを呼び求めるでしょう」と言っています。してみるとエレミアは、「私は違反と哀れを呼び求めるでしょう」といって(主のみ言葉を)告げ知らせているわけですから、善いことを呼び求めているのでしょう。しかし私たちが結ぶ契約と、それに対する違反のことを考えなければなりません。私たちは、よくない契約を結ぶときがあります。そしてよくない契約を結んだ場合には、私たちは(それらの契約に対する)違反を呼び求めるべきでしょう。同様に「滅びへと通じる広くて楽な道[4]」のことを私が考えてみますと、私がその道を歩んでいるときには哀れさを感じることはありませんが、「広くて楽な道」を離れ、「細くて狭い道[5]」に進んだ場合、私は哀れになって、こう言います。「私は哀れを呼び求める」と。私は、天の契約を手に入れるために、この世とこの世の事柄に対する契約を破ろうとします。「私は違反を呼び求めます」。同様に、「広くて楽な道」の生活を捨てて、「細くて狭い道」に進むとき、私はパウロのように「哀れに」なり、「哀れを呼び求める」と言うのです。確かにすべての人が、「私は哀れな人間です。誰が私を、この死の身体から引き離してくれるのか[6]」と言うわけではないでしょう。しかし死の身体のことを理解し、この死の身体から引き離されることを望む人は、「私は哀れな人間です」と言うでしょう。ところが身体を愛する多くの人たちは、来るべき代を信じないので、「私は哀れな人間です」とは言いません。それどころか死の身体にいながら、自分が人間であることを幸いであると思うのです。ですからもしも私が、どのような意味でパウロが「私は哀れな人間です」と言ったのかを理解できるなら、そして私がまだ哀れを呼び求めていないなら、悪に対する契約に違反することによって哀れを呼び求めるでしょう、そしてエレミアのように「私は、違反と哀れを呼び求める」と言うでしょう。もちろん私は、神への違反を呼び求めるのではありません。

私は、聖書から、契約に違反する義人の例を引いて、どのようにして彼がその業においてその違反を呼び求めるのかを示したいと思います。ユディトは、ホロフェルネス向かって、しばらくの間、外に出て神に祈りたい、そしてその後ホロフェルネスの寝台に身を委ねたいという契約を立てました。ホロフェルネスは、この契約を受け入れ、ユディトを野営地の外での祈りに行かせました[7]。ユディトは何をすべきだったでしょうか。契約を守るべきでしょうか、それともそれを破るべきでしょうか。破らねばなりませんでした。なぜならホロフェルネスに対する契約を破ることは、神の目によいことだったからです。ユディトは、ホロフェルネスに対する契約を破ることにし、こう言おうとしています。「私は違反を呼び求める」と。そして彼女は、その違反を呼び求めました。

私にしても、「私は違反を呼び求める」と言えるようになるのはよいことです。そして私は、蛇に対する契約、悪魔に対する契約を呼び求めたいと思います。かつて蛇は、エバに対して契約を立てました。そして彼女は、蛇に気に入られました。そして蛇も、この女に気に入られました。しかし神は、慈しみ深い方として、この契約が破られ、この悪しき友情を散らすように努力しました。そして神は、慈しみ深い神としてこう言っております。「私は、お前と女との間に、そしてお前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く[8]」。こうすれば私たちは、どのようにして神がこの蛇に対する敵意を置き、キリストに対する愛情を置いたかを慎重に理解することができるでしょう。反対対立するものを同時に愛することはできないのです。ちょうど「二人の主人に使えることができる人が誰もいない」ように、誰も、神と「マンモン[9]」を同時に愛することができません。キリストと蛇を同時に愛することはできません。しかしキリストに対する愛は、蛇に対する敵意を必然的に生じさせ、蛇に対する愛は、キリストに対する敵意を生まれさせるのです。

「私は、違反と哀れを呼び求めます[10]」。さて、あなたがこの「私は哀れを呼び求めます」という言葉をもっとよく理解するために、私は修道者たちに起こる出来事を述べてみることにしましょう。しばしば(修道者には)結婚したりする気持ちや、精神に反抗する肉に[11]嫌気を抱かなくなる気持ちが湧いてきます。そのとき人は、結婚する権利を行使したりせず、かえってみずからを哀れみ悩ませ、断食によって身体を縛り付け、これこれしかじかの食物を差し控えることで身体を隷属させ[12]、死すべき身体の諸々の行いを霊によってあらゆる手段で殺そうと決断するでしょう。そうしますとこのような人は、憐れみを呼び求めることなく贅沢や快楽に身を委ねることができるのに、哀れを呼び求めたのではないでしょうか。ですからもしも人が、預言者を見習うことができるなら、私たちが説明しましたように、違反を呼び求めると共に、修道生活の中で哀れを呼び求めなければなりません。この話は、まさにエレミアについての話でもまさに真実でした。なぜなら彼は、貞潔のうちに生きていたからです。主は、彼にこう言われました。「お前は、妻を取ってはならない。また子どもをもうけてはならない[13]」と。そして彼は、貞潔のうちに生きました。なぜなら彼は、「違反と哀れを呼び求めた」からです。



[1] Jr.20,8.

[2] Pr.1,28.

[3] Jl.2,32.

[4] Cf.Mt.7,13.

[5] Cf.Mt.7,14.

[6] Rm.7,24.

[7] Cf.Jdt.12,6-7.14.

[8] Gn.3,15.

[9] Mt.6,24.

[10] Jr.20,8.

[11] Cf.Ga.5,17.

[12] Cf.1Co.9,27; 1Tm.4,3.

[13] Cf.Jr.16,1-2.

 

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