「なぜなら主の言葉は、私にとって非難となった[1]」からです。エレミアは幸いです。彼は、主の言葉以外の非難を受けておりません。しかし罪深い私たちは、主の言葉のゆえにではなく、私たち自身の諸々の罪のゆえに数々の非難を受けます。私たちは、犯した間違いあるいは犯している間違いのゆえに非難され、私たちの悪の数々のゆえに罵られるのです。しかし救い主が、私たちを非難しようとして語られる非難はこのようなものではありません。「あなた方は、幸いである。私のゆえに人々があなた方を非難し、迫害し、あなた方に対してあらゆる邪な言葉を語るとき[2]」。「あなた方は、その非には喜び踊りなさい[3]」とあります。

(預言者は)、「主の言葉は、私にとって非難となり、ひねもす嘲笑となった[4]」と言っています。次にあなたは、なぜ預言者たちが善良な人間なのか、そして彼らが罪を犯していた場合、なぜ私たちのように自分の罪を隠さず、当時の人たちにだけそれらの罪を言うばかりでなく、すべての世代の人たちにも語ったのかをお考え下さい。私としては、ここにいる少数の人々の前で私の諸々の罪を告白するのをためらいます。なぜなら聞き手の人たちが私を断罪するからです。ところがエレミアは、何らかの罪に苦しんでも怖気つくことなく、自分の罪を書き記しました。実際、「私は言った。私は決して主の名を言わない。私はもはや主の名において語らない[5]」という言葉に付け加えられているのは、罪だったのです。あなたは、「主の名においてすべてを[6]」学び、主の名においてすべてを行うように教えられました。ところがあなたは、「私は決して主の名を語らない」と言われます。しかしあなたはどのような名前を呼ぶつもりなのですか。「お前たちは、心の中で他の神々の名を思い起こしてはならない[7]」とあります。しかしあなたは言います。「私は言った。私は決して主の名を言わない。私はもはや主の名において語らない」。彼は、人間的な何かに苦しんでこのように言ったのです。そしてこの人間的な何かは、私たちも、おそらくしばしば苦しんだものです。特にもしも誰かが、あるとき教えのゆえに、そしてみ言葉のゆえに悩み、苦しみ、憎まれているのを意識していた場合、その人はしばしば、「私は退く。何と煩わしいこと」と言います。もしも私が教えるゆえに、み言葉を伝えるゆえに煩わしさに襲われるとすれば、どうして私は、荒れ野と静寂に退かないのか。預言者も何かしらそのようなことを体験しています。彼はこう言っています。「そして私は言った。私は決して主の名を言わない。私はもはや主の名において語らない」と。

しかし主は慈しみ深い方です。主は、この点でこれほど偉大な人たちのこのような罪を妨げます。主は、預言者が述べたことが本当にならないようにし、エレミアがこの点で違反を呼び求め、彼が言ったことに違反させました。エレミアはこう言っていました。「私は主の名を言わない。私はもはや主の名において語らない」と。しかし彼は、こう言っています。「燃え盛る火のようなものが私の心の中に生じ、私の骨の中で燃え上がりました。私はあらゆるところから苦しめられ、耐えることができません[8]」。主のみ言葉は、彼の心を燃やすために来ました。そしてみ言葉は、「私の心の中で燃え盛る火のようになり、私の骨の中で燃えました」。預言者は、「主の名を言わない。もはや主の名において語らない」と言うことによって犯した罪を捨て去りました。しかもエレミアは、そう言うと同時に罪を捨てたのです。どうか私も、罪を犯し、罪に満ちた言葉を語ると同時に、「私の心の中に火が点ぜられ、私が絶えられないほど燃え盛っている」と感じることができますように。

み言葉は、何かを敢えて行おうとしております。私はこのことが、聴衆の皆さまに有益かどうか知れません。み言葉は、懲らしめられている人を耐えがたい苦しみで懲らしめる非感覚的な種類の火があると言っておりました。実際、こう言っております。「燃え盛る火のようなものが私の心の中に生じた」。そしてその火は、私の心の中でだけ燃えていたのではなく、「私の骨の中で燃え上がりました。私はあらゆるところから苦しめられ、耐えることができません[9]」と。私は、エレミアの心の中に生じたのと同じような火が私たちの内に蓄えられていて、私たちはまだその火の苦しみを味わっていないのではないかと思っています。もしも私たちがこの火の苦しみを味わったとして、この火と、外部の火、すなわち私たちが諸国の民の指導者たちによって火をつけられた人たちのもとに見る火の二つが目の前にあるとすると、私たちは、おそらくこの外部の火よりも前者の火の方を選ぶのではないでしょうか。実際、後者の火は表面を焼きますが、前者の火は心を焼きます。そしてその火は心から始めてすべての骨にいたります。すべての骨に達すると、燃やされるものすべてに及びます。このようにして燃やされる人がもはや耐えられなくなるくらいのところまでその火は及んでいきます。誰が後者の火について「私は耐えることができない」と言うことができるでしょうか。私は、盗人たちがこの後者の火、すなわちこの後者の火に由来する苦痛を耐えることができたのを知っています。しかしエレミアが次のように言って書き記した火からくる苦痛は、これとは別物です。彼はこう言っていました。「燃え盛る火のようなものが私の心の中に生じました。そしてその火は、私の骨の中で燃え上がりました。私はあらゆるところから苦しめられ、耐えることができません」と。前者の火は、救い主によって点されるものです。救い主はこう言っておられます。「私は、この地に火を投げつけるために来た[10]」。まさに救い主がこの火をともされるからこそ、救い主はご自分の話を聞き始めた人たちに対して、火からはじめ、まず彼らの心の中に火を投げ込むのです。このことは、シモンとクレオパが告白していることです。彼らは、救い主のみ言葉について、「彼が私たちに聖書を解き明かしていたとき、私たちの心は道すがら燃えていたではないか[11]」と言っていました。ここでは、シモンの心とクレオパの心が火によって燃えていたのです。彼らの言葉をお聞きください。「私たちの心は燃えていたではないか」。



[1] Jr.20.8.

[2] Mt.5,11.

[3] Lc.6,23.

[4] Jr.20.8.

[5] Jr.20,9.

[6] Cf.Col.3,17.

[7] Ex.23,13.

[8] Jr.20,9.

[9] Jr.20,9.

[10] Lc.12,49.

[11] Lc.24,32.

 

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