9 その火をあの世ではなく、すでに心の中で得るにふさわしい人は誰でしょうか。私は、この火を心の中に持っている人がどのような人であるかを描写したいと思います。どうか種類の点で同じ罪、すなわち汚らわしく不浄な姦淫を犯した二人の罪びとを思い描いてください。そして姦淫を犯したこれら二人の人のうち、一方は、悲しみも心の痛みも良心の呵責も感じず、『箴言』の中で売春婦について言われている状態を体験したとしましょう。そこでは、「彼女は事を行うと、体を洗い、忌まわしいことを行わなかったと言う[1]」と言われています。またもう一人の罪びとをお考えください。彼は、堕落の後、それに耐えることができず、良心を責め、心を苦しめ、食べることも飲むこともできず、みずからの決断で断食をするのではなく、回心からくる苦痛によって断食をします。どうかそのような人を思い描いてください。彼は、「一日中、暗い顔をし」、苦しみやつれ、「自分の心からうめき声を上げながら」歩き、自分の罪を「自分の前に」見ています[2]。そしてその罪は彼をいつも責め立てています。また彼は、一日だけ、あるいは一晩だけ苦しめられているのではなく、四六時中、苦しめられていることをお考えください。あなたは、これら二人の罪びとのうちどちらを選びますか。あなたなら、どちらが神のみ前に希望を持っていると言いますか。前者は、姦淫をはたらきながらも、反省することもなく、「良心の呵責も感じずに、放縦に身をゆだねているのではないでしょうか。そして後者は、たった一つの罪の後でも痛みを感じ、嘆いているのではないでしょうか。後者の人には希望があります。彼は、痛みの炎に焼かれれば焼かれるほど、それだけ多くの哀れみを受けます。彼には、姦淫を犯し嘆き悲しんでいる人に与えられるのと同じ懲らしめの時間で充分です。そしてこの人にとっては、ここでの懲らしめの時間は有益ですから、(使徒は)姦淫を犯した人を懲らしめることに専念しました。そして彼を懲らしめて悲しませ、その悲しみが充分であると見たときには、こう言っております。「このような人が行き過ぎた悲しみに飲み込まれないようにするために、あなた方は彼に対して愛を確かなものとしなさい[3]」と。私たちはそれぞれ、各自の良心を吟味しなければなりません。そしてどのような罪を犯したか自覚しなければなりません。なぜなら懲らしめを受けなければならないからです。エレミアに訪れ、次いでシモンとクレオパに訪れたこの火が自分にも訪れるように神に祈らねばなりません。それは別の火を受けないようにするためです。実際、もしもここで火を受けず、罪を犯し、しかも反省しなかったなら、別の火を受けることになるのです。

 「そして私の心の中に燃え盛る火が生じ、私の骨の中で燃えた。私はいたるところで憔悴し、耐えることができません。なぜなら私の周りに集まってきた多くの人たちからの非難の声を聞いたからです[4]」。咎め立てなき幸いなるエレミアは――私は、彼が何かほんのちょっとした罪を犯したとしても、そのような小さな罪を除いて言っておりますが――多くの人々から非難されました。しかし多くの人々による非難は、彼にとっては、神のみ許での賛美でした。彼を非難する人たちは、こう言っています。「彼の友だったあなた方、そして私たちは、彼に向かって立ち向かおう。あなた方は、彼の考えを見てみよ。彼は、欺かれるだろう[5]」と。彼らは、エレミアが別の破滅的な欺きによって欺かれることを望みました。それは、エレミアが言った欺きとは正反対のものです。彼はこう言っていました。「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」。そしてエレミアに立ち向かった彼らは、「私たちは彼に勝る。そして私たちは、彼に仕返しをする[6]」と言いました。彼らは、自分たち自身の罪のゆえに非難されて、不当に取り扱われたと考え、その故にこう言ったのです。「私たちは、彼に仕返しをしよう」と。イザヤを「鋸で引き裂いた[7]」人たちも同じようなことをしています[8]。彼らは、自分たちに向けられたイザヤの予言によって回心させられ、咎められ、非難され、諭されたたので、不当な扱いを受け(たと信じ)、彼を鋸で引き裂き、死刑の判決を下したのでした。

 しかしエレミアは、自分に立ち向かった人たちにこう言っています。「そして主は、私と共にいる。力強い戦士のように[9]」。もしも私たちがなるべき者なったとすれば、そしてエレミアや同じような人たちに訪れたあの火が私たちの諸々の罪の上に臨み、私たちがそれを受け入れるなら、主は、「力強い戦士のように」私たちと共にいてくださるのです。そして「それゆえ彼らは、(私を)迫害しました。そして彼らは(私を)理解することができませんでした[10]」。なぜなら主は、迫害される者と共におりましたから、迫害された人は、彼らの手中には落ち得ないからです。ですから、エレミアの多くの言葉が救い主に関係づけられるように、このことも同様なのではないでしょうか。実際、「あなた方は立ち向かおう。そして私たちも彼に立ち向かおう」という言葉が救い主に対しても言われるように、「主は、力強い戦死のように」彼と共におられたのです。「それゆえ」ユダヤ人たちは、「彼を迫害しました。そして理解することができませんでした」。「彼らは、はなはだしく辱められましたが、自分の恥辱を理解しませんでした[11]」。彼らは久しい以前から卑しくなっていて、自分たち自身の諸々の罪を語りだしません。「それらの罪は、とこしえに忘れ去られることはありません[12]」。ところが彼らは、自分たちの諸々の不法がこの代において忘れ去れれると思っているのです。しかし私たちは、彼らの諸々の不法は「とこしえに忘れられることはない」と考えています。そして私たちはそう考えながら、次の言葉を思い起こすのです。「あなたは高ぶってはなりません。むしろ恐れなさい。実際、もしも神が、自然の小枝を惜しまなかったとすれば、まして自然に反する事柄を、神は「惜しむことはないでしょう[13]」。

 さで、私たちと共におられる「万軍の主は、正しい事柄を調べ、はらわたと心を吟味する[14]」とあります。主は、「正しい事柄を調べ」ますが、不正な事柄を調べた上で斥けられます。まさに主は、言ってみれば、正しき事柄と不正な事柄との両替商のようなものです。そしてこのような主は、「はらわたと心を吟味する」方でもあります。確かにここでは、「(主は)はらわたと心を吟味する」と書かれています。私は、「はらわたと心を吟味する」ということがどのような特徴をもっているか、探求してみたいと思います。「はらわたと心を吟味する」ということと、「心とはらわたを調べる[15]」ということは、それぞれ別のことなのでしょうか。主は、すべての人たちの心とはらわたを吟味するのではありません。主は、罪を犯した人たちの心とはらわたを吟味されます。私は、この世で拷問を受ける人たちについて言われる場合の「吟味する」という言葉の意味を考えています。法廷では、ある人たちは吟味し、ある人たちは吟味されます。またある人たちは、きわめて激しい苦しみの内に吟味されます。罰を与える人たちは、わき腹を吟味し、身体を吟味します。しかし主だけは、吟味の新しい仕方を持っています。すなわち主は、心を吟味されるのです。そして心とはらわたを吟味することは、主だけに属しております。この世の盗賊たちは、支配者の命令に基づいてわき腹を吟味されます。しかしあの世では、神の命令からではなく、主ご自身によって、人は、はらわたと心を吟味されます。もっともここで私が、命令を受けるのはおん子であり、命令を下すのがおん父であり、み言葉が心とはらわたとを吟味すると言うのであれば、この限りではありませんが。私は、すべての尋問の中で、すべての苦しみの中でもっともきついものは、心とはらわたとを吟味するときのみ言葉に由来すると思っています。それゆえ私たちは、この吟味に渡されないように全力を尽くしましょう。この吟味に比べるなら、福音書の中で言われている「拷問する人たち[16]」に渡された人たちが受ける苦しみは軽いものです。始め、これらの人たちは、多くの人たちに渡されるでしょう。そして彼らは、心とはらわたを吟味する唯一のみ言葉に渡されるのにまだふさわしくなっていないときには、おそらくさらに多くの拷問者に渡されることでしょう[17]。あの金持ちは、心とはらわたを吟味する方に渡されるにはまだふさわしくありませんでした。ですから彼は、より多くの人たちによって苦しめを受けることになったのです[18]。彼がこの後、この(み言葉による)吟味を受けたかどうかは、能力のある方がお考えになってください。ともかくも数々の吟味と、私たちの罪に関して心とはらわたを吟味する方とが、私たちを待ち構えています。もしも私たちが、みずからの罪からはできるだけ早く離れないなら、私たちはこれらの拷問者の手にかかるでしょう。それゆえ私たちは、キリスト・イエズスに結ばれて幸いなものとされるように、立ち上がって、神からの助けを乞い求めましょう。キリスト・イエズスに、「栄光が代々にありますように。アーメン[19]」。



[1] Pr.24,55(30,20).

[2] Cf.Ps.37,7..9-10.

[3] Cf. 2Co.2,7-8.

[4] Jr.20,9-10.

[5] Jr.20,10.

[6] Jr.20,10.

[7] Cf.He.11,37.

[8] Cf.Ascensio Isaiae V, 11-14.

[9] Jr.20,11.

[10] Jr.20,11.

[11] Jr.20,11.

[12] Jr.20,11.

[13] Rm.11,20-21.

[14] Jr.20,12.

[15] Cf.Ps.7,10.

[16] Mt.18,34.

[17] Cf.Hom.Jr. XIX,14.

[18] Cf.Lc.16,19.28.

[19] 1P.4,11.

 

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