第3講話
「私はイスラエルの家にとって荒れ野だったのか」から、「それとも乾いた地だったのか[1]」まで
1 イスラエルについて(いま)朗読されました話の元で、主は、ご自分がイスラエルにとって「荒れ野」ではなかったし、また「乾いた地」でもなかった、と言っております。一体この個所を前にして、書かれたことの真意を探りながら、次のように問う人はいないでしょうか。すなわち、
神がイスラエルにおいて荒れ野ではなかった、またイスラエルにおいて乾いた地ではなかったとすれば、神は今日、イスラエルにとって荒れ野となたのでしょうか。そして神は、いまやイスラエルにとって乾いた地になったのでしょうか。では、これはどうでしょう。神がイスラエルとって荒れ野ではなく、また乾いた地でもなかったとすると、神は、諸国の民にとって荒れ野であり、乾いた地であったのでしょうか。実際、神が、すべてのものに対して常に、荒れ野でないとすれば、またすべてのものに対して常に乾いた地でないとすれば、どうしてことさらイスラエルに対して、特別こう言われる必要があるのでしょうか。「私はイスラエルの家にとって荒れ野だったのか、それとも乾いた地だったのか」と。