たしかに、この「代の終わりのときの[1]」私たちに関する事柄が、そのような類のものになるだろうと言うことは、救い主によって福音のなかで言われた言葉から明らかです。救い主は言っております。「不法が増えたので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる[2]」。そして、「来るべき(偽預言)者が、数々のしるしと不思議なことを行って、できれば、選ばれた人たちを惑わすだろう[3]」と。私たちに関する事柄も、それと同じようなものでしょう。ですから救い主は、ご自分の到来に関して、これほど多くの教会の中から信仰ある人をすぐに見出すことはできないというようなことを言っているのです。すなわち(救い主はこう言っておられます)「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出せるだろうか[4]」と。もしも私たちが、物事を物の数ではなく真実によって判断するならば、そしてもしも私たちが、物事を集まった多くの人を見てではなく、心構えによって判断するなら、私たちが信仰ある人間でないことに、私たちは気づくでしょう。以前は、信仰のある人々が(たくさん)おりました。あの当時は、高潔な殉教が行われました。あの当時、私たちは、殉教者たちの葬列に加わった後、墓地から集会所へ向かいました。そして全き教会[5](何ものにも)煩わされることなくそこにありました。要理教育の受講者たち[6]は、殉教者たちを目の前に、「死に至るまで[7]」真理を告白した人たちの死を目の前にしながら要理教育を受けていました。しかしそれでも、彼ら(要理教育の受講者たち)は生ける神に信頼して、ひるむことなく[8]、また心乱すこともありませんでした。私たちは、あの当時、不思議で驚異的なしるしを見た人さえ知って言っています。あの当時、信仰のある人はわずかでしたが、しかし彼らは本当に信じていました[9](あの時の彼らは)「生命へと至る、狭く険しい道を[10]」歩いていました。ところがいまの私たちは数こそ多くなりましたが、多くの人が選ばれることはできませんから    実際、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない[11]」と仰せになったイエスは、嘘をおつきになりませんから    、敬神を誓った多くの人たちのなかで、神の選びと至福にたどり着く人々はごくわずかなのです。



[1] Cf.Mt.13,49.

[2] Mt.24,12-13.

[3] Cf.Mt.24,24.

[4] Lc.18,8.

[5] o[lh h. e,kklhsi,a

[6] oi. kathcou,menoi

[7] Cf. Ap.2,10.

[8] Cf. Ph.1,28.

[9] To,te h-san pistoi, o,li,goi me.n pistoi. de. a,lhqw/j

[10] Cf.Mt.7,14.

[11] Mt.20,16.

 

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