12  「もしも(イスラエルが)その口から、忌わしいことを取り去り、私の前で畏れを抱き、『主は、真実と分別と正義のうちに生きておられる』と誓うなら・・・[1]」。誓いを立てる私たち自身を振り返ってみましょう。一体私たちは、分別のうちに誓いを立てず、無批判に誓いを立てているのではないでしょうか。私たちの誓いは、分別によってというよりも、惰性によって[2]行われているのではないでしょうか。たしかに私たちは、(惰性に)押し流されているのです。そしてみ言葉が批判しているのは、このことなのです。み言葉は、「もしも(イスラエルが)真実と分別と正義のうちに『主は、生きておられる』と誓うなら[3]」と言っておられるのです。(ところで)私たちは、ご福音のなかで主が、弟子たちに次のように言われていたのを知っています。「しかし私は、あなた方に言う。決して誓ってはならない[4]」。そこで私たちは、この言葉も考察してみることにしましょう。そしてもしも神がお許し下さるなら、この両者のみ言葉は、互いに吟味し合うことになるでありましょう。たぶん先ず最初に、「真実と分別と正義において」誓いを立てねばなりません。そしてその後、(徳において)進歩すれば、その人は、決して誓いを立てず、かえって事態はそのとおりである<と証言する人々>を必要としない「いいえ」を持つに至り、また、事態は本当はそうでは「ない」と証言する人々を必要としない「いいえ」を持つに値する者となるのです。

  ですから、「(イスラエルは)真実において主は生きてられると誓わねばなりません[5]」。誓う人に対して、私は先ず、偽りを求めず、真実を求めます。それは、その人が真実をもって誓うためです。    しかし私たちもひどい人間なのです。なぜなら私たちも偽証するのですから。「真実をもって」誓わねばなりません。しかし<それでも>その誓いは、立派なもとはなりません。「分別において」の誓いではないからです。実際、私が、惰性によって誓ったとしてみましょう。それでは、<私が>「分別において」<誓った>ことにはならないのです。もしも(ある人が)何らかの問題で、万物の神<と>そのキリストを、このような(無分別の)誓いのために、(証人として)招かざるをえないとしても、何もこの私がわざわざ跪いて誓いを立てねばならないほど、その問題は重要なのでありましょうか。(もちろん)ある人たちの間に時として生じる私の言葉に対する不信の念に配慮して、私がこのようなことをすることもございましょう。しかしもしも私がいい加減に誓いを立てるなら、私は罪を犯すことになるのです。

  ですから、「もしも(イスラエルが)真実とともに、そして分別をもって」、すなわち無批判にではなしに、また「正義において」、すなわち不正な仕方ではなしに、「主は<生きている>と誓うならば、諸国の民もイスラエルにおいて(神を)賛美することになるのです[6]」。(エレミアは)この両者、すなわち、異邦人の出身者たちとイスラエルとを一つに合わせることによって、方や諸国の民について語り、方やイスラエルについて語ったのであります。



[1] Jr.4,1-2.

[2] e;qei ma/lon h] kri,sei

[3] オリゲネスは、「真実と分別と正義のうちに」という連用修飾句を、「生きている」にではなく、「誓うなら」に掛かるものと解釈している。

[4] Mt.5,34.

[5] Jr.4,2.

[6] Jr.4,2.

 

次へ