そこで、数々の言葉がイスラエルに言われた後で、今度は私たち異邦の民の出身者たちに、こう言われるのです。「子どもたちよ、立ち返りなさい。お前たちが立ち返れば、私は、お前たちの傷を癒そう」と。しかし、ある人はこう言うかもしれません。「これらの言葉はイスラエルに言われたものだ。それなのに、あなたはそれらの言葉を異邦の民の子孫たちに(強引に)当てはめている」と。私たちとしては、神がイスラエルに向かって救いに関する事柄を語ろうとお望みになったとき、しばらくたってからではなく、すぐに、イスラエルの名前を言い添えているということを指摘しておきましょう。実際、引き続きこう言われているのであります。「イスラエルがもしも私のもとに立ち返る気なら    と主は言われる    立ち返りなさい。そしてイスラエルが自分の口からその忌まわしいことを取り除き、私の目の前で賢明に振る舞い、主は真理と裁きと正義のうちに生きておられると誓うなら、諸国の民は、イスラエルにおいて祝福を受けるであろう[1]」と。ですから(救いに関する)最初の言葉は、先ず、異邦の民の出身者たちに向けて言われ、それから<イスラエルに向けて言われるのです>。なぜなら『ローマの人たちへの手紙』のなかで使徒によって言われた言葉によりますと、「異邦人の大多数が(救いに)入ったとき、全イスラエルが救われることになる[2]」からです。

あなたは、神がどのようにして、回心しようとする私たちを促し、完全な回心を行わせようとしているかにご注意ください。神は、もしも回心する私たちが神のところに立ち返るなら、イエズス・キリストをとおして私たちの「諸々の傷」を癒そうと約束してくださっているのです。そして私たちは、あのイスラエルのように救いに対して躊躇い、もたもたするようなことをせず、こう応えるのです。「はい、私たちはあなたのみもとに参ります[3]」。かみは、言われました。「子どもたちよ、お前たちは立ち戻ってきなさい。お前たちが立ち戻れば、私はお前たちの諸々の傷を癒そう」。異邦の民の出身者たちは応えました。「私たちは(あなたの)しもべです[4]」。私たちは以前は、「あなたの」しもべではありませんでした。私たちは、悪霊どものしもべであり、まさに逆らう霊たちのしもべでした。実際、「いと高きおん方が諸国の民を分けられたとき」、私たちはあなたの「取り分」とはならず、またヤコブの民とともに、あなたの「嗣業の土地[5]」ともなりませんでした。かえって私たちは、他の者たちの取り分となったのです。しかしながら私たちはかつては、他の者たちの取り分となっていましたが、あなたが私たちに、「子どもたちよ、立ち返りなさい。立ち返れば、私はお前たちの諸々の傷を癒してやろう」と言われたので、私たちは、こうお応えしたのです。「<はい>私たちは(立ち返ります)[6]」。私たちこれだけを待っています。すなわち、召し出しです[7]。あの人たちは召されたとき、辞退を願い出ました。しかし私たちは、あの人たちと同じように、召されたとき、辞退を申し出たりはいたしませんでした。実際、私たちは、福音書のたとえ話なかで次のようなことが行われたのを知っているのです。最初に召された人たちのうち「ある人は、『私は妻を迎えました。どうか失礼させてください』と言いました。また、ある人は、『私は牛を五つがい買いましたので、それを試しに行くところです。どうか失礼させてください』と言ったのです[8]」。私たち諸国の民の出身者は、招かれたとき、このように辞退を申し出たりはいたしませんでした。どうしてそんなことをするのでしょう。一体どのような畑を見に行くために(招きを辞退するのでしょう)。どのような賢い妻のために(そうするのでしょうか)。では、私たちは、他のどんなことに関わることになったのでありましょうか。

神は、私たちに言いました。「子どもたちよ、立ち返りなさい。お前たちが立ち返れば、私はお前たちの諸々の傷を癒す」と。そして私たちは、私たち自身の傷と、癒しの約束を目の当たりにして、直ちに応えて言いました。「ご覧ください、私たちはあなたのみもとに参ります。なぜならあなたは、私たちの主なる神だからです[9]」と。そう、私たちは聞き従い、「私たちはあなたのみもとに参ります」と言ったからには、私たちは神に従い、そのおん者に向かって「あなたのみもとに参ります」と言ったのだということを銘記しておきましょう。私たちは、「あなたのみもとに参ります」と神に申し上げたのですから、私たちは他の誰のものにもなってはなりません。私たちは、怒りの霊のものでも、悲しみの霊のものでも、欲望の霊のものでも、悪魔のものでも、悪魔の使いどものものでもないのです。私たちは召し出され、「ご覧ください、私たちはあなたのみもとに参ります」と申し上げたのですから、私たちは、神のものになることを約束し、神以外の何ものにも身を委ねなかったということを、行いによって示さなければならないのです。そして私たちは、「なぜならあなたは、私たちの主なる神だからです」と言いました。実際、私たちは、「その腹が神となっている[10]」ような大食漢のように(自分の)腹を神として告白したり、金銭に欲な者たちのように金銭を神として告白したり、偶像崇拝という貪欲を[11]神として告白したりは決してしません。また、その他どんなものでも、私たちは、多くの人たちがするように、神に見立てたり神格化したりは[12]決してしません。私たちにとって、すべてのものに臨む神とは、「すべてものの上に位し」、「すべてのものを貫き」、「すべてのものの内にある」神なのであります[13]。私たちにとっては、神への愛が生きがいなのですから    たしかに愛は、私たちを神に固く結び付けているのです    ですから、私たちは言うのです。「ご覧ください、ここにいる私たちは、あなたのみもとに参ります。なぜならあなたは、私たちの神なる主だからです」と。



[1] Jr.4,1-2.

[2] Rm.11,25-26.

[3] Cf. Jr.3,22.

[4] Cf. Jr.3,22.

[5] Cf. Dt.32,8-9.

[6] Cf. Jr.3,22.

[7] tou/to ga.r perieme,nomen, th.n klh/sin, mo,non

[8] Cf. Lc.14,18-20.

[9] Jr.3,22.

[10] Ph.3,19..

[11] Cf.Ep.5,5.

[12] e,kqeou/men kai. qeopoiou/men

[13] Ep.4,6; o. e,pi. pa/si qeo,j, o. <<e,pi. pa,ntwn>>, o. <<dia. pa,ntwn>>, o. <<e,n pa/si>> qeo,j e,stin.

 

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