さて、私たち諸国の民の出身の者は、イスラエルの罪[1]によって私たちが救いの道を得たこと[2]、そして私たちの大多数が(救いに)入るまで、あのひとたちが外に投げ出された[3]とうことを知っておりますし、また、諸国の民の大多数が(救いに)入ったら、その後で全イスラエルが救われるだろうということ[4]を知っておりますので、私たちは先ず最初にこう言いましょう。「本当に諸々の丘と諸々の山の力とは偽り物でした」と。そして第二に、諸国の民の大多数の後に救われるイスラエルに関して、「しかしイスラエルの救いは、私たちの神なる主による[5]」と言いましょう。ところで、私たちは使徒の言葉に言及しました。使徒の言葉はこう言っております。「イスラエルの犯した罪によって、救いが異邦人に来ました」。そしてイスラエルが外に残されたまま、「諸国の民の大多数が(救いに)入ったとき」、諸国の民の大多数が(救いに)入った後で「全イスラエルが救われるでしょう」と。そこで私たちは、この個所にまつわる事柄を解きほぐしてみることにいたしましょう。救われたのは、イスラエルの<一部>[6]でした。そしてイスラエルの多く[7]が放逐されました。しかし「恵みによって選ばれた残りの者が存在しておりました[8]」。「エリアについてのくだりで[9]」は、この残りの者について、次のようなことが神秘的に言われています。「私は、バアルにひざまずかなかった七千人を、私のために残しておいた[10]」と。そして使徒は、この残りの者について解釈し、こう言っております。「ですから今でも、恵みによって選ばれた者が残っています[11]」。したがってイスラエルが捨てられても、イスラエルの残りの者が救われるのです。(ここで)もしもできますならば、どうかあなたは、これらの(部分と全体という)二つの部類を、諸国の民の出身者たちにも当てはめてみたください。(使徒は)「すべての異邦人が救われたとき、全イスラエルが救われる」と言ったのではありません。彼は、「異邦人の大多数が(救いに)入ったとき、全イスラエルが救われる[12]」と言ったのです。イスラエルの一部が救われるのは、すべての異邦人の後でではないのです。それは、「異邦人の大多数」の後のことなのです。そしてもしもできる人がいれば、ちょうどイスラエルが諸国の民の大多数の後で救われたのを見たのと同じように    その人は理性によって残りの時間[13]を乗り越えて    『ゼファニア』で言われている「すべてのものが一つのくびきの下に主に仕え、エチオピアの果てから供え物を携えて、主に捧げる」のが、一体いつなのかを考えてみてください。それは、『詩編』第六十七編で言われているように、「エチオピアはその手を伸べて主のみ前に進む[14]」とき、そしてみ言葉が地の諸々の王に命じて、「主に向かって歌声を上げよ。ヤコブの神に向かって竪琴を奏でよ[15]」言われるときであります。

 



[1] to. para,ptwma

[2] Cf. Rm.11,11.

[3] Cf. Lc.13,28.

[4] Cf. Rm.11,25-26.

[5] Jr.3,23.

[6] <tij>  ,Israh.l

[7] o. polu.j ,Israh.l

[8] Rm.11,5: lei/mma kat~e,klogh.n ca,ritoj

[9] Rm.11,2;cf. 1 R.19,10.14.

[10] Rm.11,4.

[11] Rm.11,5.

[12] Rm.11,25-26.

[13] to. loipo,n

[14] Cf.So.3,9-10.

[15] Ps.67,32-33.

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