次に私たちは、罪人たちについて言われていることを見てみましょう。「あなたは彼らを鞭打たれましたが、彼らは痛みを覚えませんでした[1]」とあります。感覚的な鞭[2]が生きている身体に加えられますと、鞭打たれている人が望むと望まざるとにかかわらず、それらの鞭は身体に痛みをもたらすものです。ところが神の鞭は、ある人々には痛みをもたらし、また、ある人々には痛みをもたらさないような類のものなのです。そこで私たちは、神の鞭によって痛みを覚えることと痛みを覚えないこととが何であるかを述べることができるかどうか、考察してみることにいたしましょう。と申しますのも、神の鞭によって痛みを覚えない者たちは不幸であり、神の鞭によって痛みを覚える者たちは幸いだと(聖書で見なされているからであります)[3]。知恵は次のように言っております。「誰が、私の思いに鞭を当て、私の唇に悪行の封印をしてくださるのか。私の数々の過失を見逃さず、私の罪が私を滅ぼさないために[4]」。「誰が私の思いに鞭を当てるのか」という言葉にご注目ください。これはつまり、思いを鞭打つ鞭があるということです。神の鞭が、思いを鞭打つのです。と言いますのも、み言葉は、魂を捕まえてこれを責め、自らの犯した罪を自覚させ、鞭を加えるからであります。み言葉は、幸いな人を鞭によって苦しめます。なぜなら、み言葉はその人を吟味し、その人も自分を責めるみ言葉を蔑んで遠ざけたりしないからです。ところがいわば無感覚な人が見つかりますと、その人についてこう言われるのです。「あなたは彼らを鞭打たれましたが、彼らは痛みを覚えませんでした」と。ですから、叱責する言葉が言われ、罪に「汚れた良心[5]」を持つ人の思いに、いま言われたその言葉が達すると仮定して、もしもそれを聞いた人たちのなかに痛みを感じる人がいれば、その人についてこう言われることになるのです。「お前は、どのようにして」そのような人が「胸に痛みを覚えたかを見た[6]」と。これに対して、(叱責の言葉を)聞いた人たちのうち、痛みを感じず、叱責の言葉に無感覚であった者がいれば、そのような無感覚な人に対しては明らかに、「あなたは彼らを鞭打たれましたが、彼らは痛みを覚えませんでした」と言われることでありましょう。

  以上は、「痛みを覚えなかった」あるいは痛みを覚えたということについての一つの説明です。しかし私たちは、さらに別の説明がないか考えてみましょう。身体に付属する手足のなかには、生気が失せて干からびてしまったものがありまが、生気の失せた肢体は、生気ある肢体と比べて、次のような事態をしばしば被ります。生気ある肢体に苦痛を生じさせるものが加えられますと、苦痛を起こすものがあてがわれたものは、苦痛を覚えます。しかしこの苦痛を生じさせるものが感覚のない肢体にあてがわれても、感覚のない肢体は痛みを覚えることがありません。それは死んでいるからです。もしもあなたがそれらのことを身体についてご理解したのなら、今度はそれを魂に当てはめてみて、魂にもその肢体において死んだものがあるのかどうかお考えください。魂にも、どのような苦痛をもたらすものであっても、鞭打ちによる苦痛を感じないものがあるのではないでしょうか。苦痛が加えられるとします。しかしその苦痛を感じない魂もあれば、苦痛を感じる別の魂もあることでしょう。おそらく、自分に加えられる苦痛を感じない人が、苦痛を感じることよりも、苦痛を感じないことの方を悲しく思うときもあるあるのではないでしょうか。彼は、苦痛を加えられれば痛みを覚えることを願っているのです。なぜなら彼にとって、苦痛を覚えることは生きていることのしるしであり[7]、苦痛を感じないことは不快なことだからであります。身体についてこのようなことが起こるのと同じように、「彼らは、火に焼かれることを望むだろう[8]」という(聖書の)言葉のなかに、何か次のようなことが示されているのではないかと、私は考えております。すなわち、火があてがわれても、それに焼かれる人が感覚を持たない場合があるわけですから、(いま聖書で言われた)あの人々は、苦痛を感じない人々と感じる人々との違いを捕らえて、感じないよりは火(の苦痛)を感じることの方を願っているのではないでしょうか[9]。そして罪人たちに対しては、あの選り抜きの火が加えられるわけですから、感覚を持たないことよりも感覚を持つことの方を願う人も、なかには、いるでありましょう。

以上が、「あなたは彼らを鞭打たれましたが、彼らは痛みを覚えませんでした」という言葉についての説明であります。「あなたは彼らを仕上げました。しかし彼らは、教育を受けようとはしませんでした[10]」。万物を配慮される神が、魂の救いのために浄化の業[11]を行ったとき、神はご自身にかかることがらを成し遂げられました。この、「あなたは彼らを完成されたが、彼らは、教育を受けようとはしませんでした」という言葉については、知識を授ける人と、その人から知識を受け取ろうとしない人の場合を例に取れば、ご理解いただけるでありましょう。すなわち教師は、自分にできることはすべて行い、知識の伝授のためにすべてを成し遂げたとします。ところがその弟子の方が、言われたことを受け取らなかったとしてみましょう。私なら、そのような弟子について、あなたはこの男を仕上げたが、この男は教育を受けようとはしなかったと、その教師に言うと思います。ですから、もしも摂理に由来するすべての事柄が、私たちのために、私たちが仕上げられ完成された者になることを目的として、行われるものであるなら、そして私たちが、私たちを完成へと導く摂理に属する事柄を受け取らないとすれば、理解力のある人は、神に向かって、「主よ、あなたは彼らを仕上げました。しかし彼らは、教育を受けようとはしませんでした」と言うでありましょう。

 



[1] Jr.5,3.

[2] ai` aivsqhtai. ma,stigej

[3] Cf.In Ex.10,27(Philocalie XXVII, 6).

[4] Si.22,27;23,2-3.

[5] Cf.1 Co.8,7.

[6] Cf.1 R.20,29(LXX).

[7] evpei shmei/o,n evsti tou/to(=ponei/n) tou/ zh/n auvto,n()))

[8] Is.9,4.

[9] Cf. In Ps.II,10 (PG 12, 1112 D); Hom.Jér.XX,8-9.

[10] Jr.5,3.

[11] ta. kaqartika.

 

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