しかし私は、そのようなことが、私たちに対しても起こるのではないかと考えております。いくつかの懲らしめが加えられるのではないでしょうか。その結果、第二の懲らしめを受けない人たちには、初回の第一の懲らしめで充分ですが、他の人たちは、第三の懲らしめまでは行かなくとも、第二の懲らしめまで進み、また他の人たちは第四の懲らしめに向かうのではないでしょうか。実際、「私は七つの災いを(お前たちに)加える[1]」というみ言葉は、何らかの神秘を明らかに示しています。一つ目の災い、二つ目の災い、三つ目の災い、そしていま言われたように、ある人たちへの七つ目までの災いがあるのではないでしょうか。しかしすべての人たちが七つの災いによって打たれるのではないでしょう。私が思いますに、ある人たちは六つの災いに打たれ、他の人たちは五つの災いに打たれ、またある人たちは四つの災い、またある人たちは三つ<か>四つの災いに打たれるのではないでしょうか。そして誰よりも、懲らしめを受けることの少ない人たちでも、一回は懲らしめを受けると私は思っております。

 とにかく神は、これらの災いに関する事柄をご存知です。ですからそれで、この朗読箇所の始めに、いま話題になった(イスラエルの)人たちに関わる「その日が来ても、私はお前たちを終局まで打ちはしない[2]」という言葉が書かれたのです。終局は、「その日に」来るのではありません。神が終局まで打つべき人を打つ日は、別にあるのです。



[1] Lv.26,21.

[2] Jr.5,18.

 

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