「そして、『何ゆえに神なる主は、私たちにそのような悪をことごとくなさったのか』と、あなた方が言う場合には、お前は、彼らにこう言いなさい。お前たちが私を捨て、お前たちの土地で別の神々に仕えたように、お前たちは、お前たちの土地でないところで(それらに)仕えねばならない[1]」。この言葉の意味を理解しなければなりません。さし当たっては、聴く力のある人たちの記憶力に訴えて、この言葉を説明するだけで充分でしょう。さて、イスラエルの子らは、聖なる土地、神殿、そして祈りの家[2]をもっていました。彼らは、神を礼拝しなければなりませんでしたが、神の掟に背いて偶像に仕え、ダマスコの諸々の偶像を受け入れてしまいました。それは、『列王記』に書き記されているとおりであります[3]。そして彼らは、その他の諸々の偶像を異邦の民から受け取って、聖地に持ち込みました。彼らは、異邦の民の偶像を受け入れることによって、自分たちを異邦人の地へ追放されるに値する者、偶像を拝んでいた土地に下るに値する者としてしまったのです。

 そこでみ言葉は、彼らに文字通りこう言いました。「お前たちが私を捨て、お前たちの土地で別の神々に仕えたように、お前たちは、お前たちの土地ではないところで、別の神々に仕えることになる[4]」と。何かを神格化しようとする者[5]はみな、別の神々に仕えています。あなた方は、食べ物や飲み物を神格化して[6]いませんか。あなたの「腹が、神[7]」なのです。あなたは、金銭とこの世の富を大きな善として敬ってはいませんか。マンモンが、あなたの神であり主なのです。実際、イエズスは、マンモンを金好きの人たちの主であるとして、こう言っております。「あなた方は、神とマンモンとに兼ね仕えることはできない。誰も二人の主に兼ね仕えることはできない[8]」。ですから、金銭を尊重したり、富を賞賛したり、富を善であると思い込んだり[9]、富んでいる者たちを神々でもあるかのように受け入れ、貧しい人たちを神のいない人として蔑む者は、金銭を神としているのです。もしも誰かが、神の土地、すなわち教会で、神格化するに値しないものを神格化し、他の神々を伏し拝むようなことがあれば、その人は、別の土地に追放されるでありましょう。そして(教会の)内側に身を置いて伏し拝んでいた神々を(別の土地で)崇拝することを強いられるでしょう。金銭欲のある人は、教会から追放されて、外にいるがよろしい。大食漢は、教会の外に身を置いているのがよろしいのであります。

 象徴的解釈に関しては、以上でおしまいにしておきましょう[10]。今のところは、私の身に余ることがら、すなわち救い主が、「一体誰が、私たちのものをあなた方に与えるだろうか」と言われたその土地について、また他の人の土地で礼拝が行われたために、神がご自分の土地に属する人たちを追放し、(『バルク書』のなかに)書かれている土地へ追いやるように取り計らったことについて、過剰にかかずらうことはやめておきましょう。(この『バルク書』にはこう書かれています。)「聞け、イスラエルよ。お前が、敵どもの土地にいるとは、どういうことだ。お前は、黄泉の国に下る者たちのなかに数えられたのか。お前は、生命の源である主を捨てたのだ。もしもお前が神の道を歩んでいたなら、お前は、永久に、平和のうちに住んだであろう[11]」と。

 とにかく私たちは今、異国の地におり、しかもイスラエルの子らが聖なる土地で行ったのとは反対のことを行いたいと願っています。実際、彼らは、聖なる土地で異国の神々を礼拝しましたが、私たちは異国の地で、この土地とは無縁の神を、この土地にある諸事物とは無縁の神を礼拝しているのです。「この世の支配者が(この土地を)支配して[12]」おります。しかし神は、ここ異国の地では、この支配者の子らとは無縁なのであります。もちろん、無縁であると私は言いましたが、神はこの世をお造りにならなかったのだとまで言うつもりはありません。神は、邪悪の主とは無縁であり、現在の諸々の罪とは無縁であると言っているのです。それにしても、罪に由来する事柄とは無縁の神を礼拝しようとするとき、私たちは一体何を行うべきでしょうか。考えてみましょう。私たちは、「われらは異国の地にあって、どのようにして主の歌を歌おう[13]」とは申しません。私たちは、「異国の地ではないところで、どうやって主の歌を歌えよう」と申します。私たちは、異国の地のなかに、主の歌をうたえる場所を、われらの神である主を礼拝できる場所を探しているのです。では、そのような場所は何でありましょうか。私はこの場所を見つけました[14]。この場所は、救いをもたらす身体を担って[15]この異国の地に来てくださいました。「罪の身体[16]」をお取りになり、「罪の肉と等しいありさまで[17]」この異国の地に来られたのです。それは、キリスト・イエズスが到来し、この世の支配者を滅ぼし[18]、罪を無効になさったことによって、私たちが、この異国の地にありながら神を礼拝し、それから後は、あの聖なる土地で礼拝できるようになるためなのです。実際、聖なる土地で諸々の偶像を礼拝した人が、異国の地へ去っていったとすれば、この異国の地で神を礼拝した者は、キリスト・イエスに結ばれて、聖なる土地へと去っていかなければならないでありましょう。キリスト・イエズに、栄光と力が代々にありますように。アーメン[19]



[1] Jr.5,19.

[2] o` oi=kon th/j proseuch/j

[3] Cf. 2 R.16,10

[4] Jr.5,19.

[5] o` qeopoiw/n ti

[6] evkqeia,zeij

[7] Ph.9,19.

[8] Mt.6,24.

[9] In Ps.IV,6 dans Philocalie, XXVI (éd.Robinson p.231, ou PG 12, 1152 BC), et R.Cadiou Commentaires inédits sur des Psaumes. Études sur les textes d’Origène contenus dans le ms.Vindob.8, Paris, 1936, p.74;Com.Rom.III,1,p.130,2 Schérer; H.Crouzel, Origène et la philosophie, Paris,1962,p.31-32.

[10] Tau/ta kata. mi,an tropologi,an(...

[11] Ba.3,9-13.

[12] Jn.12,31.

[13] Ps.136,4.

[14] Cf.Ba.3,15.

[15] fore,saj sw/ma to. sw/san

[16] Rm.6,6.

[17] Rm.8,3.

[18] Cf.Jn.12,31;1 Co.15,24.

[19] 1 P.4,11.

 

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