「そして主は、ご自分の英知において天を広げられた[1]」。(エレミアが)天に対して、英知(という言葉)を取り上げたのは、偶然ではありません。実際、あなたは、『箴言』のなかに次のようなことが言われているのを見出すはずです。「神は、知恵において大地の基を据え、英知において天を備えられた[2]」。ですから神の知恵のようなものが存在し、しかもそれは、キリスト・イエズスのうちにしか求めることができないものなのです。なぜかと申しますと、神に属するその類のものはどれもすべて、キリストだからであります[3]。「神の知恵[4]」はキリスト、「神の力[5]」はキリスト、神の「義[6]」はキリスト、「聖化[7]」はキリスト、「あがない[8]」はキリストであり[9]、同様に神の英知もキリストなのです。もちろん、キリストは、実体において一つですが、かずかずの面において、さまざまな事柄を指す多くの名称でもあるのです。ですから、あなたは、キリストをさまざまな名称で理解するとき、キリストについて同じことを理解しているのではないのです[10]  すなわち、あなたがキリストを知恵と理解するときと、キリストを義と理解するとき、またキリストを知恵すなわちを神に関する事柄と人間に関する事柄の知識と捉えるとき[11]、キリストを万事につけて然るべき報いを配分される力としての正義と捉えるとき、また、信じて、神に身を捧げる人々を聖なる者にすることができる聖化として捉えるとき、あなたは、キリストについて同じことを理解しているわけではないのです。同様に、キリストは、善きものと悪しきものそしてそれらのいずれでもないものの知識でもありますから[12]、あなたは彼を英知として理解するのです。

 さて、天に居住する者たちにとっては[13]、あるいは、「天に属する人間を身に帯びている[14]」者たちにとっては、<天と地が>分けられています。それは、天が神の英知によって広げられることによって、あの天がもはや汚されず、また天である義人も汚されないようにするために  もちろん後で私が証明しますように、義人もまた天なのです  、神が<これまた天と呼ばれる天蓋を広げて>諸々の悪と諸々の善とを分けたからです。こういうわけで、「神は、ご自分の英知において天を広げられた」と言われているのです。

  では、天は、どのように広げられたのでしょうか。それは、知恵がそれを広げることによって、であります。「私は、(私の)諸々の言葉を広げても、お前たちは意に介さなかった[15]」という言葉のなかに、知恵が(天を)広げたということが示されています。知恵は、その諸々の言葉の拡張のようなものが存在すると[16]言っているのです。天は、このようにして広げられます。また、『詩編』第103編には、「私は、天を皮革のように広げた[17]」と言われています。私たちの魂もまた、以前は縮み上がっていましたが、神の知恵を受け入れることができるように広げられるのです。

 しかし目下の課題に、私たちは戻ることにしましょう。私たちは、天が英知において造られたということについて話をしておりました。また、天に属する人間を身に帯びている人たち自身が天でもあると言いました。実際、罪を犯した人に対して、「お前は土である。そしてお前は土に帰る[18]」と言われるのであれば、「諸々の天の国はその人のものであると[19]」と言われる正しい人に対しては、「お前は天である。そしてお前は天に帰る」と言われないのでしょうか。あるいは、「土の似象を帯びた[20]」人に対しては、(その人が)土に属する人であるがゆえに、「お前は土である。そして土に帰る」と言われるでありましょう。(同様に)あなたが「天の似象を帯びている」場合には、「お前は天である。そしてお前は天に帰る」と言われるのが適当ではないでしょうか[21]。私たちは各々、天に属する業と地に属する業とを持っているのです。「天に宝を積まず、地に宝を積む人を[22]」、それらの宝と同類の地に引きずり下ろすのが、地に属する業であります。これに対して、徳にかなった行いは[23]、「天に宝を積み」「天の似姿を身に帯びる」人を、天にあってそれらの行いと同類の場所へと導くのです。



[1] Jr.10,12.

[2] Pr.3,19.

[3] pa,nta ga.r o[sa tou/ qeou/ toiau/ta, evstin( o` Cristo,j e;stin)

[4] Cf.1 Co.1,24.30.

[5] Cf.1 Co.1,24.

[6] 1 Co.1,30.

[7] 1 Co.1,30.

[8] 1 Co.1,30.

[9] Cf.Com.Jn.I, 9 (11) §59.

[10] VAlla. to. me.n u`pokei,menon e[n evstin( tai/j de. evpinoi,aij ta. polla. ovno,mata evpi. diafo,rwn evsti,n( kai. ouv tauvto.n noei/j peri. tou/ Cristou/( o[te noei/j auvto.n ....

[11] Cf. I.von Arnim, Stoic. vet.fragm.II, p.15,4.12; p.25; Clément d’Alexandrie, Péd.II,25,3; Strom.,I,v,30,1; IV,xxvi,163,4 etc. ; C.Celse IV,72; Com. Matth. XVII,2; InProv.,I,2(PG 13,17B).

[12] Cf. Stobée, Eclogae eth.II,4; Épictète, Entretiens I, xxx,7,18; Marc-Aurèle, Pensées II,11 etc;.Com.Rom.X,3(PG 14,1253 C); In 1 Cor.fragment XXXVIII(JTS IX,p.507,31); Com.Jn XX,39(31), §363; C.Celse IV,96,2(SC 136,p.422); In Rom.fragment XXX(JTS XIII,p.364,6).

[13] Cf.Ph.3,20.

[14] Cf.1 Co.15,49.

[15] Pr.1,24.

[16] e;ktasi,n tina ei=nai lo,gwn

[17] Ps.103,2.

[18] Gn.3,19.

[19] Mt.5,3.

[20] Cf.1 Co.15,49.

[21] Cf.Hom.XI,2;L.II,9,;De orat.26,6(GCS 3, p.362, 28s.).

[22] Cf.Mt.6,19-20.

[23] ta. pratto,mena katVavreth,n

 

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