「そして(主は)地の果てから諸々の雲を上らせた[1]」。この言葉は、先日の『詩編』のなかにも見られました[2]。そのとき私たちは、どのようにして神が、「諸々の雲を地の果てから上らせた」のかを説明いたしました。ここでこの(聖書の)言葉をもう一度取り上げる必要があるでしょう。  既にご存じの方には、(先日それについて)言われたことの記憶を鮮明にしていただき、また、忘れてしまったか、あるいは居合わせなかった人には、この言葉(の意味)を明らかにするために。たしかあの時、この言葉は説明され明らかにされ、また何らかの意味で理解されたはずです。私たちは、聖なる人たちは雲であると申し上げました。実際、「あなたの真は、諸々の雲にまで及ぶ[3]」という言葉は、魂のない雲に当てはめられるものではありません。むしろ神の真は、神の命令に聞き従い、雨をどこに送り、誰からそれを取り上げるかを知っている雲に及ぶのです。神が雨を降らすな、あるいは降らせと命令を下す雲が存在するからこそ、「私は、そのぶどう畑に雨を降らせるなと、諸々の雲に命じる[4]」と書かれているのです。ところでこれらの雲に関して言うと、雨がないとした場合、それは、神がブドウ畑やその他の土地に雨を降らせるなと命令したからではありません。『列王記下』に書かれておりますように、(命令を下すべき)雲が姿をまったく現さなかったからであります。『列王記下』では、日照りのときは、雲は見えませんでしたが、エリアの預言の言葉によりますと、雨が降ろうとするときには、雲の痕跡が、「男の足跡のように[5]」現れ、雨を作る雲が生じたとあります。しかしながら、諸々の雲があっても、魂が雨にふさわしくなければ、それらの雲は雨を降らすなという命令を受けます。それで、「私は、そのブドウ畑に雨を降らせるなと、諸々の雲に命じる[6]」と書かれているのです。したがって、聖人たちはそれぞれ、雲であります。モーセは雲であります。そして雲のように言いました。「天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。そして地よ、私の口の言葉を聞きなさい。私(の口)から出た言葉が、雨のように待ち望まれますように[7]」。  <ここでモーセは、もしも雲がなかったら、「私(の口)から出た言葉が、雨のように待ち望まれますように」とは、決して言わなかったでしょう。>  「そして私の言葉が、露のように滴るように[8]」と。モーセは、雲のように言います。「青草の上に降る夕立のように、枯れ草の上に降る雪のように、私は主のみ名を呼んだ[9]」と。同じようにイザヤも、雲のようになって言っています。「天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。主が語られる[10]」と。まさしく彼が雲になっていたからこそ、イザヤは自分とともに預言をする者たちを雲と呼び、こう預言して言っているのです。「私は、そのぶどう畑に雨を降らせるなと、諸々の雲に命じる」と。



[1] Jr.10,13.

[2] Cf.Ps.134,7.

[3] Ps.35,6.

[4] Is.5,6.

[5] 2 R.18,44(LXX).

[6] Is.5,6.

[7] Dt.32,1-2.

[8] Dt.32,2.

[9] Dt.32,2-3.

[10] Is.1,2.

 

次へ