これらの雲が何であるかを私たちが理解したなら、次に私たちは、神がどのような意味で「地の果てから諸々の雲を上らせるお方である[1]」のかを考察してみましょう。救い主は言われます。「あなた方の間で第一の者になりたいと望む者は、みなの最後にならなければならない[2]」。パウロは、この掟を守り、この世界のなかで最後の者になりました。彼はこう言っております。「私が思うに、神は、私たち使徒を、まるで死刑囚でも扱うかのように、一番最後に引き出される者になさいました。なぜなら私たちは、世界に対しても、天使たちに対しても、人間たちに対しても、見せ物となったからです[3]」と。ですからもしも誰かが、救い主の掟を守り、いわばこの世の生活に対して最後の者になっているなら、その人は雲なのです。神は、諸々の雲を、大地に属する最初の者たちから上らせません。執政官たちから諸々の雲を上らせるのではありません。支配者たちから諸々の雲を上らせるのではありません。豊かな者たちからでもありません。なぜなら「貧しい者たちは幸い。神の国はあなた方のものだから[4]」です。あなたは、神がどのような意味で諸々の雲を地の果てから上らせ、またどのようにしてそれらの雲を具体化している[5]かがおわかりですね。ですからもしも私たちが神の「真が及ぶ雲[6]」になりたいのであれば、私たちは、すべてのもののなかで一番最後にならなければなりません。そして行いと態度をもって、「私が思うに、神は私たち使徒を、一番最後に引き出される者になさいました」と言わなければなりません。たとえ私が使徒でなくとも、「地の果てから諸々の雲を立ち上らせてくださる」神が私をも立ち上らせてくださるよう、私が一番最後の者になることはできるのです。

「そして(主は)稲妻を作って雨を降らせた[7]」。これらの事柄に通じている人たちは、稲妻の発生は、雲同士の摩擦から生じると言っております。すなわち、この地上で火打ち石に関して起こることが、つまり、二つの石をぶつけ合わせると火が生じるように、それと同じことが、雲の場合にも起こると、彼らは言うのです。稲妻は、嵐のときに雲がぶつかり合うと、生じるのです。それで、たいていの場合、稲妻は、雷鳴とともに生じるのでしょう。雷鳴は、雲同士の衝突音を表しており、稲妻は光を生み出すのです。



[1] Ps.134,7;cf.Jr.10,13.

[2] Mc.9,35.

[3] 1 Co.4,9.

[4] Lc.6,20.

[5] swmatopoiei/ ta.j nefe,laj

[6] Cf.Ps.35,6.

[7] Jr.10,13.