もしもあなたがこの具体例を理解しましたら、どうか、可知的な雲[1]についてもお考えください。モーセは雲だったのです。ナベの子ヨシュアは雲でした。そう、これらの雲は互いに言葉を交わすのです。そして彼らの言葉から、稲妻が生じるのです。エレミアは雲でした。バルクは雲でした。そして彼らは互いに話をするのです。そして、エレミアの言葉とバルクの言葉から、稲妻が生じたのです。もしもあなたができますならば、このように聖書のなかから、どのようにして稲妻が生じたのかを示す実例を集めてみてください。また新約聖書のなかでも、パウロとシルアノは、二つの雲でした。彼らが一所で出会うと、書簡の稲妻[2]が生じました。

それで神は、「稲妻を作って雨を降らせたました」。そして神は、「ご自分の倉から、諸々の風を出しました[3]」。しかし風は倉に収まるのでしょうか。むしろ地上に吹くこれらの風の本性がどのように存在するかは、明らかにならないのではないでしょうか。しかし諸々の風の倉のようなものは存在します。諸々の(息吹である)霊の倉は存在するのです。「知恵と理解の霊、忠告と力の霊、知識と信仰の霊」、「神の畏れの霊[4]」、「力と愛と慎みの霊[5]」の倉が存在するのです。またあなたは、聖書のなかからこのような風を、みずから集めることができるでしょう。これらの息吹は、倉のなかにあるのです。では、これらの倉[6]は何でありましょうか。「彼のうちに、知恵と知識の宝[7]が隠されています[8]」。それらの宝は、キリストのうちにあるのです。ここから、これらの風が、すなわちこれらの霊が来て、ある者を賢者に、ある者を信仰者に、ある者を有識者に、またある者を、神から何らかの賜物をいただいた者とするのです。「実際、ある人には霊を通じて知恵の言葉が与えられ、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が、またある人には、同じ霊において信仰が与えられる[9]」のです。



[1] h` nohth. nefe,lh

[2] h` th/j evpistolh/j avstraph,; L’épître aux Thessaloniciens (I et II) dont l’adresse est ainsi libellée: <<Paul et Sylvain et Timothée, à l’église des Thessaloniciens ... >>.

[3] Jr.10,13.

[4] Is.11,2-3.

[5] 2 Tm.1,7.

[6] oi` qhsauroi,

[7] oi` qhsauroi,

[8] Col.2,3.

[9] 1 Co.12,8-9.

 

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