み言葉は、「ユダの人たちとエルサレムに住む者たちに[1]」語られます。エルサレムとは、教会のことであります。事実、教会は「神の都[2]」であり、平和の眺望なのです[3]。そこには、み言葉が私たちにもたらしてくださった平和があり[4]、もしも私たちが平和の子であれば[5]、それは増え広がり見られるようになるのです。

 次に、「お前たちは、この契約の言葉を聞きなさい。そしてお前たちは、ユダの人たちとエルサレムに住む者たちに語れ。そしてお前は彼らに向かって言え。<イスラエルの>神、主はこう言われる。『この契約の言葉に聞き従わない人は呪われる。この契約は、お前たちの父祖たちに私が命じたものである』と[6]」とあります。一体誰が、「神が父祖たちに命じた契約の言葉」にもっともよく聞き従うのでしょうか。神を信じる人たちでしょうか。それとも、主を信じなかったのでモーセをも信じていないことが明らかとなった人たちでしょうか。たしかに救い主は、このような人たちに対して言っております。「あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じるであろう。モーセは私について書いているのである。モーセの書いたものをあなたたちが信じなければ、どうして私の言葉を信じるであろう[7]」と。このように彼らはモーセを信じなかったのです。これに対して私たちは、キリストを信じることによって、モーセを通して(結ばれた)契約を信じているのです[8]。そして私たちが呪われたものとならないように、私たちにこう語られたのであります。「私が父祖たちに命じた契約の言葉に聞き従わない人は、呪われる」と。

 彼らは、呪われるようになってしまいました。なぜなら彼らは、「神が父祖たちを、エジプトの地、鉄のかまどから導き出した日に、彼らに命じた契約の言葉に[9]」聞き従わなかったからです。そして神は私たちをも、「エジプトの地、鉄のかまどから導き出し」たのです  特に『ヨハネの黙示録』に書き記された事柄を理解した人の見解によれば。すなわち、「彼らの主が十字架に付けられた場所は、霊的にソドムとかエジプトとか呼ばれる[10]」とあります。たしかにその場所が、「霊的にエジプトと呼ばれる」のです。しかしこの(地上の)エジプトが、霊的に呼ばれるエジプトなのではありません。実際、この(地上の)エジプトは感覚的なものなのです。そうであれば、もしもあなたが霊的に呼ばれるエジプトに思いを馳せ、そのエジプトから脱出するなら、あなたは、「エジプトの地、鉄のかまどから」脱出した人[11]となり、次の言葉があなたに言われるのは明らかなのです。「お前たちは私の声に聞き従い、すべてを行え[12]」云々と。

そして(神の言葉に)聞き従う者たちが、命じられたことを行うならば、次のような神の約束が彼らに与えられます。こう言われております。「そしてお前たちは私の民となり、私もお前たちの神になる[13]」と。神の民であると自称するすべての民が、神の民なのではありません。神の民になると約束されたかつての民も、「なぜならお前たちは私の民ではないからだ」という(主の)言葉の中に、「お前たちは私の民ではない」という言葉を聞き、このかつての民に対して、「私の民ではない[14]」と言われたのです。そして今度は逆に、現在の民が「民」と呼ばれるようになりました[15]。実際、「彼らは、神ならぬものをもって私に妬みを引き起こし」――(ここでは)かつての民について語られています――「自分たちの諸々の偶像をもって私を怒らせた。私も、民ならぬ者をもって彼らに妬みを引き起こし、愚かな異邦人をもって彼らを怒らせる[16]」と言われています。



[1] Jr.11,2.

[2] Cf.Ap.3,12.

[3] h` {Orasij th/j eivrh,nhj; Étymologie de Jérusalem d’après la Traduction des noms hébreux et Philon, De somniis 2, §250. Voir encore l’homélie L.II,1.

[4] Cf.Jn.14,27.

[5] Cf.Lc.10,6.

[6] Jr.11,2-4.

[7] Jr.5,46-47.

[8] Cf.C.Celse I,45.

[9] Jr.11,3-4.

[10] Ap.11,8.

[11] o` evxelqw.n

[12] Jr.11,4.

[13] Jr.11,4.

[14] Os.1,9.

[15] Os.2,25.

[16] Dt.32,21.