聖書講話と長老職

 

 

 講話(o`mili,a)は、キリスト教の集会における説教であるが、求道者を含む一般の信徒を前にして、特定の聖書箇所を分かりやすく解説したものである。講話において解説すべき聖書箇所は、ユダヤ教から採用された三年周期の聖書朗読の配分にならって[1]、監督によって指定されたが[2]、有賀太郎によると、時には会衆の求めに応じて選定されたらしい[3]。朗読された聖書は、旧約聖書に話を限ると、オリゲネスがカイサレイアで聖書講話の担当を委託された時期(二三九〜二四二年)には、彼に割り振られた聖書の朗読箇所は、現存する彼の聖書講話の年代的な前後関係から、「知恵書・預言書・歴史書」の順であったことが判明している[4]。その講話の目的は、聖書の字句の平明な解説を通して、聴衆の道徳教化と教理教育を図ることであった。  

講話は、通常、長老によって行われることになっていたが、長老職に就いていない者も講話を担当することができた[5]。オリゲネスも、二三二年頃にカイサレイアで長老職の按手を受ける前に、エルサレムの司教アレクサンドロスとカイサレイアの司教テオクティストスの前で説教を許されていたが[6]、そのときの講話は伝えられていない。もちろんカイサレイア教会における講話は、オリゲネスただ一人が担当していたとは考えられない。たとえばオリゲネスの現存する諸講話のいずれもが、該当する聖書の章句をすべて解説していないのが、その証拠として挙げることができる。つまりオリゲネスが解説していない章句は、他の長老が解説していると考えられるのである。とはいえ講話が網羅的でない理由には、その他にも様々な要因を指摘することができる。たとえば写本の伝承過程で、欠落生じたり、講話に先立って朗読された箇所が長過ぎるためすべてを説明できなかったということである。事実、『サムエル記講話』では、オリゲネスは、朗読箇所があまりにも長いために、先ずそれを四つのテーマ(perikoph,)に分けて要約し、その内のどれを解説すべきかを司教に尋ねているのである[7]



[1] Cf. P.Nautin, Origène, sa Vie et son oeurvre(=Origène),p.400.

[2] Hom.Ez.XIII,1 (GCS 33, 440, 3-5) :「ティロスの君の話について、その功罪を議論するように私どもは、監督の方々から命じられています。更にエジプトの王ファラオについても何か言うように命じられています」。

[3] 有賀鐵太郎オリゲネス研究495頁参照。

[4] Cf. P.Nautin, Origène,p.403. 勿論、本来の順番は、七十人訳ギリシア語聖書の配列順に従って、「歴史書・知恵書・預言書」の順に行われるべきであるが、オリゲネスがカイサレイアの教会で講話を担当したときには、既に前任者によって歴史書は終わっていたと思われる。

[5] Traditio Apostolica,19:教師は、祈りの後に求道者に手を置いて祈り、そして彼らを帰さなければならない。(教えを)与える者が、教会人(evkklhsiastiko,j)であれ、一般の信徒(lai?ko,j)であれ、このようにしなければならない」。少なくともローマ教会では、一般の信徒が教え(この場合には教話)を与えることが許されていた。

[6] Cf.Eusebios, Historia Ecclesiastica(=HE),VI,19,16-18。オリゲネスも、前注に挙げられたのと同じような先例に基づいて、説教を許されていた。

[7] Cf. Hom.1S. 28,3-25,§1(GCS 6, 283, 4): 「・・・一時間とは言わず、数時間以上の集会でなら、それらを説明することもできますが、司教様、その四つの中からお望みのものをお選びください。私はそれに専念しましょう」。

 

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