参加者

 

オリゲネスの講話を聞いていた聴衆の構成を見ると、まず司教と長老が祭壇の回りに半円に座っている[1]。この場所は、長老席(presbyterion / presbute,rion)と呼ばれていた[2]。これは、会衆席よりも高いところに置かれていたように思われる[3]。また、マタイによる福音注解によれば、司教席は、長老席とは区別されていた[4]。執事には、祭壇に仕える者もいれば、会衆の中にいて、会場整理係の役を果たす者もいた[5]  

他方、会衆について言うと、講話の最後に「立って祈りましょう」と呼びかけられているところから、会衆は、講話の間、座っていたに違いない。しかし会衆が椅子に座ったのか、今日のイスラム教徒のように絨毯を敷いて座ったのかは、不明である。おそらくそのいずれでもあろう。また会衆の中には、信者の他に、求道者も当然含まれていた[6]  

しかしオリゲネスの講話の会場は、必ずしも、厳かで静粛な雰囲気に包まれていたわけではなかった。彼は、講話に集まる人々の数の少なさや態度の悪さに、しばしば不満をもらしている。当時の講話は、一時間ほど続いたらしい[7]。したがって教会に定期的に参加できる人の数は、彼らの仕事の都合上、当然、限られていた。おそらくその大半は、今日の教会の場合のように、何らかの理由である程度時間に余裕のある人たちであったと想像される。オリゲネスは、創世記講話で、次のように嘆いている。  

「皆さんは、時間のすべてとは言いませんが、ほとんどの時間を世俗的な仕事に費やしています。広場や商売で時間を費やし、あるいは畑や訴訟に時間を使っています。そしてわずかな人たちを除いて、誰も神のみ言葉を聞くことに時間を使わないのです[8]」。  

 しかし教会に来ても、み言葉に耳を傾けず、雑談に耽る不届き者もいた。  

「欠席している人たちについて、私は、何を嘆いたらよいでしょうか。あなた方は、教会に出席し、その中に身を置いているにもかかわらず、耳を傾けず、いつものように在り来たりのおしゃべりに没頭し、神のみ言葉や聖なる朗読に背を向けています。私は、預言者を通して言われた言葉が、主によってあなた方にも言われているのではないかと心配です。こう言われています。「彼らは私に背を向け、顔を向けなかった」(Jr.18,17)。神のみ言葉の奉仕が委ねられている私は、どうしたらよいでしょうか[9]」。

 

出エジプト記講話によれば、聖書の朗読が始まると、教会を出る者もいた。こう言われている。  

「あなた方の中には、聖書が朗読されるのを耳にするや、すぐに立ち去ってしまう人がいます。・・・ また、聖書が教会で朗読されるのを忍耐強く待てない人たちさえいます。さらには、朗読が行われているのも知らぬ顔で、主の家の隅っこの方に引っ込み、おしゃべりに没頭している人もいます[10]」。

 

彼の聖書解釈は、多くの識者を引き付けたとはいえ、やはりそれに興味をもてない人たちがいたのであろう。本講話より一半世紀前にシリアかパレスチナで著されたと考えられる十二使徒の教訓でも、既に、「執事は、誰もしゃべったり、眠ったり、笑ったり、合図を送ったりしないように注意しなければならない[11]」と定められている。いつの時代にも儀式の進行に集注できな人は、いるものである。



[1] Cf. Hom.Jg.III,2: in altaris circulo.

[2] Cf. Hom.Jr.XI,3:「彼らは長老席に座る」; Fragm.Jr.L:「長老席に座る人」; Eusebios, HE,VI,19,13.

[3] Cf. Hom.Jr.XI,3:「私たちは、聖職のゆえに、皆さまよりも高いところに座っている人のように思われています; Hom.Ez.V,4:聖堂で上席に座っていることが、私にとって何になるでしょうか」; Com.Mt.lat.12:「長老と呼ばれる人たちが、聖堂のよく見える座席の周りを歩き回っています」。

[4] Cf. Com.Mt.XV,26(GCS40, 426, 18): evpiskopiko.j qro,noj

[5] Cf. Hom.Jr.XII,3:「民の周りに立つこれらのレビ人たちの内に――私は執事たちのことを言っております――罪を犯す者がいれば・・・」; cf. Com.Ct.II. また、十二使徒の教訓XII,57,6-7.にも同様のことが書かれている:「執事のある者は、捧げ物の近くにいつも立っていなければならず、またそのある者は、門の外にいて、入ってくる者を監視しなければならない。そして奉献の間は、彼らは教会内で奉仕すべきである。もしも人が然るべき場所にいなければ、執事はその人を促して導き、適当な場所に座らせなければならない」。

[6] Cf. Hom.Jr.XVIII,8;Hom.Ez.VI,5:求道者の皆さん、よく注意して聞いてください; Hom.Lv.VI2:しかし、神聖な洗礼を受けることを望んでおられるあなた方も・・・」; Hom.Jos.IX,9:「改宗者の皆さん、すなわち求道者の皆さん、あなた方はいつまでも求道者のままでいてはなりません・・・」; Hom.Lc.VII,8:「あなた方、求道者の皆さんにお願いいたします」; XXI,4:「さあ求道者の皆さん、悔い改めましょう」; XXII,6; Hom.Ps.XXXVI,I,5.

[7] Cf. Hom.Ez.XIII,2: Vix unius horae puncto verbo Dei assistentibus(既出).

[8] Hom.Gn.X,1: Plurimum ex hoc, imo paene totum tempus mundanis occupationibus teritis; in foro aliud, aliud in negotiatione consumitis; alius agro, alius litibus vacat, et ad audiendum Dei Verbum nemo aut pauci admodum vacant; cf. Hom.Gn.X,.

[9] Ibid.,: Quid de absentibus conqueror? Praesentes etiam et in ecclesia positi non estis intenti, sed communes ex usu fabulas teritis, verbo Dei vel lectionibus divinis terga convertitis. Vereor ne et vobis dicatur a Domino illud quod per prophetam dictm est : Converterunt ad me dorsa et non facies suas. Quid igitur ego faciam, cui ministerium verbi Dei creditum est?

[10] Hom.Ex.XII,2: Aliqui vestrum ut recitari audierint quae leguntur, statim discedunt ... Alii ne hoc ipsum quidem patienter expectant, usque dum lectiones in ecclesia recitentur; alii vero nec, si recitentur, sciunt, sed in remotioribus dominicae domus locis saecularibus fabulis occupantur. Et cf. Hom.Ex.XIII,3; Hom.Lv.IX,7; Hom.Jos.I,7; Hom.Jg.VI,1.

[11] Didascalia, XII,57,10.

 

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