修辞

 

講話は、聖書の内容を聴衆に解説することにあるから、当然、聴衆の注意を喚起し維持するために、様々な技法が使用されている。たとえば、語句を繰り返す「反復法[1]」、聖書の引用の際の補足的「挿入[2]」、接続詞を使わずに言葉を勢いよく繰り出す「連結辞省略[3]」、その場にいない人物を一人称で登場させる――すなわちオリゲネス自身が登場人物になり代わって、引用した言葉を敷衍する――「活喩法[4]」、聴衆への「発問」などが見られる。それらの技法の内、もっとも頻繁に使われるのは、「反復法」と「発問」であるが、もっとも際立っているのは、「活喩法」である。その一例を挙げてみよう。  

 「ああ、私は禍だ。わが母よ、私をどのような男として産んだのですか。私は全地で裁かれ、断罪される者となりました」(Jr.15,10)。わが母よ、どうして私を生んだのですか。私は、この地のすべての人の前で裁かれ、この地のすべての人の前で断罪される男となりました[5]

 

また講話の中には、「私」、「私たち[6]」、「あなた」、「あなた方」、「皆さん」という語、あるいはそれらの語を要求する動詞の活用形が多用されているのも、実際の講話の現場を生き生きと表している。特に「あなた」という語は、オリゲネスが書見台から目を上げ、視線の合った目の前にいる一人の聞き手に直接話し掛け、何らかの決断を迫るときに使われていると考えられなければならない[7]。ここにオリゲネスの、講話に掛ける熱意のほどが伺われる。オリゲネスは、できれば会衆の一人ひとりに話し掛け、信仰生活の強化を直接に訴えたいのである。  

オリゲネスが、聴衆の注意を喚起し説得を試みるために様々な修辞法を使っているといっても、彼の講話は、誇張した表現を並び立てる雄弁とはほど遠い。彼の流暢な発話は、修辞法を意図的に駆使したものではなく、あくまでも、ただ聴衆に聖書を解説したいという熱意から生まれたごく自然な発話である。そもそもオリゲネスは、話の内容を無視して弁舌の巧みさだけを披露するギリシアの修辞学(雄弁術)を信用していなかった[8]  

彼の講話は、反復や議論の展開を中断する敷衍や挿入が目につき、時に冗長な印象を与えるが、それは勿論、平明な解説と聴衆の注意の喚起には避けられない。また彼の講話の結びは極めて簡潔で、常に、ペトロの第一の手紙4,11から取られた栄唱――(キリスト・イエス)に栄光と力が代々にありますように。アーメン――で意外にあっさりと終わっている。おそらくこのことは、講話をいたずらに長引かせることによって、限られた時間の中で行われる典礼の円滑な進行を妨げたくないという配慮によるものだろう。



[1] Cf.eg.Hom.Jr.V,14; XIV,15 etc.

[2] Cf.eg.Hom.Jr.X,4; XVII,3 etc.

[3] Cf.eg.Hom.Jr.XIV,14; cf.I,7 etc.

[4] Cf.eg.Hom.Jr.XIX,15; XX,7; XIV,7 etc.

[5] Hom.Jr.XV,2.

[6] なお「私たち」(nos / h`mei/j)は、ときに「私」(ego/ evgw,)の謙譲語としても使用されるが、区別するのは難しい。

[7] Cf.eg.Hom.Jr.X,1; XVII,3 etc.

[8] Cf. Hom.Gn.X,2; Hom.Ex.IV,6; Hom.Jr.L.II,7 :「もしもあなたが、最悪な諸々の教説の、死をもたらす言葉が、どのような言葉遣いをするか、どれほど優美な雄弁を呈するか、どれほど巧みに物事を明快に説明するかに注意すれば・・・」; H.Lubac, Histoire et Esprit, Paris, 1950, p.81-82.有賀によると(上掲書174頁注1)、クレメンスも、修辞学に否定的な態度を取っていた(Clemens Alex. Strom.VI,17; VII,8)

 

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