次に、他の節の始めは、こうなっています。「主は、ご自分の蔵を開いて、ご自分の怒りの器を出した。なぜならカルデア人たちの地に、諸々の力の主が必要だからだ。彼らの時が来た。あなた方は、その蔵を開け、洞窟のようにそれを調べ、何も残らないようにそれを破壊せよ。そのすべての実りを干からびさせ、彼らをしに至らしめよ。彼らは不幸である。なぜなら彼らの日、彼らの復讐の時がきたからだ[1]」と。私は、「主がご自分の蔵を開け、ご自分の怒りの器を出した」と言われていることを理解したかったので、聖書の他の箇所から神の怒りの器を探求いたしました。そして私は、この箇所とのより完全な比較のために、使徒の書いたものを見出しました。私はその中で、使徒が、神の怒りの器が何であるかを私に明らかにしているのを見出します。彼は、こう言っています。「しかしもしも神が、ご自分の怒りを示し、ご自分の力を知らせようと望んで、滅びのために準備された怒りの器を、大いなる忍耐の内に出したとすれば――それは、(ご自分の)栄光のために(主が)準備した憐みの器の上に、それもユダヤ人たちの中からばかりでなく、異邦人たちの中からも(主が)召し出してくださった私たちの上に、ご自分の栄光の豊かさを示すためです[2]」と。使徒はすべての人々を二つに分けて、ある人たちは憐みの器であり、他の人たちは怒りの器であると言っています。たとえば彼は、ファラオやエジプト人たちを怒りの器と呼び、逆に、最初に「憐みを獲得した[3]」自分自身と、その当時、ユダヤ人たちと異邦人たちの中から(キリストを)信じるに至った人たちを憐みの器と呼んだのです。

 ですから神の蔵には怒りの器が存在します。実際こう書かれています。「主は、ご自分の蔵を開き、ご自分の怒りの器を出された[4]」と。怒りの器が見出されるこの主の蔵は何でしょうか。おそらくある人は次のように尋ねるでしょう。主の蔵には怒りの器しかなく、万物の蔵である神の蔵は憐みの器を持たないのか、それとも怒りの器が運び出される神の蔵について何か別のことが理解されねばならないのかと。私は敢えてこう言いたいと思います。神の蔵はその教会であり、その蔵の中に、すなわち教会の中に、怒りの器である人々がしばしば隠れていると。ですから、主がご自分の蔵である教会を開く時が来るでしょう。実際、教会は、今は閉じられています。そして怒りの器は、憐みの器と一緒に住んでいます。藁は麦と一緒です[5]。失われ斥けられた魚は、網に収まった善い魚と共に(教会の中に)含まれています[6](神が)裁きの時にこの教会を開き、そこからご自分の怒りの器と出したとき、憐みの器である人は、外に出てきた怒りの器について、おそらく次のように言うでしょう。「彼らは、私たちから出て行きました。なぜなら彼らは、私たちに属していなかったからです。もしも彼らが私たちに属していたら、確かに私たちと共に留まっていたでしょう。しかし彼らは私たちから離れていきました。それは、彼らが皆、私たちに属していなかったことが明らかにされるためでした[7]」と。

 (これまでの)話はさらに別の事柄に着手するように促しています。さて、私たちが敢えて申し上げたいことは、次のようなことです。神の蔵には怒りの器が存在します。そしてその蔵の外にあって罪を犯した器は[8]、怒りの器ではありません。むしろそれらは怒りの器よりも劣っています。なぜならそれらは、自分の主の意思を知らず[9]、主の意思を行わない僕だからです。これに対して教会の中に入る人は、怒りの器であるか、憐みの器です。教会の外にいる人は、憐みの器でも怒りの器でもありません。私は、教会の外の留まっている人を示すある別の名称を探したいと思います。そして私がそれは、憐みの器ではないと自信をもって断言するのと同じように、逆に私は、それは怒りの器と呼ばれえず、むしろ、他の何らかのことのために取って置かれた器である呼ばれ得るという見解を、私は理性の真理に動かされて[10]率直に表明したいと思います。では私は、聖書から、それが憐みの器でも怒りの器でもないことを証明することができるでしょうか。もちろんその目的は、この第二の釈義が、目下の箇所のにおいて何かしら有益なことを私たちにもたらすようにするためであり、さらに(私たちの)話が、既に長い間取り組んでいる事柄に敢えて着手できるようになるためです。使徒は次のように言っています。「しかし大きな家には、金の器や銀の器だけがあるのではありません。木の器や土の器もあり、ある器は尊いことに、またある器はけしからぬことに使われます。ですからもしも誰かが、これら(の偽りの教え)から身を清めたなら、その人は尊いことに使われる器、聖なる器、主人に役立つ器、すべてのよき業のために準備された器となるでしょう[11]」。あなたはこの大きな家がいま存在し、その中に尊いことに使われる器とけしからぬことに使われる器が存在するとは思いますか。むしろ来るべき家の中に、尊いことに使われる金や銀の器が憐みの器として見出されるのではないでしょうか。そしてその他の器は、その外にいる並みの人々で[12]、彼らはいわば怒りの器でも憐みの器でもなく、神の何らかの深遠な采配によって大きな家の中にある器、清いわけではなく、卑しいことに使われる土の器ですが、家に不可欠の器ではないでしょうか。

 しかしあなたは、私がまさにこの具体例を、聖書の他の証言からも確証することができないかお考えください。(エレミアは)こう言っております。「コンヤは、まったく無益な器のように、尊ばれなかった[13]」。彼は、この器には有益性があるとか、けしからぬことに使われる有益性があるとか言っているのではありません。彼は、その器が神の家に属していながら、罪を犯したために、あらゆる点で無益であると言っているのです。私はさらに、ある別の罪人について次のように言っている聖書の言葉を知っています。こう言われています。「そして彼は、破片のようになった。あなたはそれで、ほんの僅かな水しか汲めず、炭しか運べない[14]」。(聖書は)ここでも、(この罪人が)まったく不必要であり、あらゆる面で無益な器であると断言しているのです。

 ですからともかく、この神の家にいる私たちは、神がご自分の蔵を開き始められたとき、私たちは清められ始めるでしょう。ただしそれは、怒りの器が私たちによって投げ捨てられて、私たちが憐みの器になっていた場合に限ります。それともそのような事態は既に十分始まっていて、私たちが怒りの器ではなくなり、怒りの器が私たちによって投げ捨てられるようにしているのではないでしょうか。実際、このようなことを、使徒パウロがコリントの人たちに言っております。「まったくあなた方の間に淫行があると聞いています。それは、異邦人にも見られないほどの淫行で、ある人が父の妻を自分のものにしているそうではないですか。それなのにあなた方は、思い上がっています。あなた方は(それを)嘆き、そのような業を行った人をあなた方の間から取り除くこともしなかった[15]」と。これはまるで、神の蔵が開けられたなら、怒りの器は外に出ると言っているようなものです。実際、「主は、ご自分の蔵を開き、ご自分の怒りの器を出された[16]」のです。

 私はある箇所で救い主が次のように言っているらしいのを読んだことがあります――もちろん誰かが救い主の位格の予型となっているしろ、その人が記憶の中から思い出しているにせよ、私はそれが真実か否かを調べたいのですが――、とにかく救い主はその箇所で次のように言っております。「私の近くにいる者は、火の近くにいる。私から離れている者は、み国から離れている[17]」と。実に私に近い人は、救いに近いように、火にも近いのです。そして私の話を聞いたにもかかわらず、聞いたことを破って、「滅びのために準備された怒りの器[18]」になった人は、私の近くいる場合、火に近いところにいるのです[19]。しかし私に近い人は火に近いので、(それを)警戒する人は、私から離れてしまい、火の近くにいることもありません。そのような人は、み国からも遠くにいることを知るでしょう。また競技に登録されていない競技者は、鞭打ちを恐れることも、栄冠を期待することもありませんが、一たび名乗りを挙げた者は、敗北を喫せば鞭打たれ放り出されるか、勝利を収めれば栄冠を授けられます。それと同様に、教会の中に入った人――洗礼志願者のあなたは、耳を傾けてよく聞いてください――、神のみ言葉に近づいた人は、信心を競う競技に登録されているのです。そして一たびと登録された場合、もしもその人が、適正に戦わなかったなら、鞭打ちに受けることになります。この鞭打ちは、(入信の)元に登録されていなかった人に加えられはしません。しかしもしもその人が鞭打ちや辱めを避けるために果敢に闘ったなら、暴行を免除されるばかりか、栄光の「不滅の栄冠を受け取るでしょう[20]」。



[1] Jr.27,25-27.

[2] Rm.9,22-24.

[3] Cf.2Co.4,1.

[4] Jr.27,25.

[5] Cf.Mt.3,12.

[6] Cf.Mt.13,47-48.

[7] Cf.1Jn.2,19.

[8] vasa peccantia

[9] Cf.Lc.12,47-48.

[10] econtrario ex rationis veritate commotus

[11] 2Tm.2,20-21.

[12] mediocres homines: 「良くも悪くもない中間的な人々」で、義人に劣るが、救いから見放されている人々ではない。Cf.Platon, Phaedon, 113D.

[13] Jr.22,28.

[14] Cf.Is.30,15.

[15] 1Co.5,1-2.

[16] Jr.27,25.

[17] 外典『トマスによる福音書』からの引用である(Guillaumont, Puech, Quispel, Till et Al-Masih, Paris, 1959, p.45). Cf. Hom.Jos.IV,3; Didymos, In Ps.88,8 (PG 39, 1488D): ~O evggu,j tou/ pur,j( o` de. makra.n avpVevmou/( makra.n avpo. th/j basilei,aj)

[18] Cf.Rm.9,22.

[19] 罪を清める火であるイエスに近づく罪人は、その火によって清められる可能性があるということである。

[20] Cf.1Co.9.25.

 

次へ