「カルデア人の地には、諸々の力の主の業がある[1]」とあります。様々な理解に応じて、地上の場所は、多様に命名されます。そして救い主は、互いに異なる観念において複数の呼称を持つのと同じように――なぜなら救い主は、実体において一つですが、諸々の力において多様だからです[2]――、地上の事柄も、人類に悪のゆえに、実態において一つですが、理解の多様性の内に多となるのです。しかし私が申しましたことは、私が救い主から引いた例を詳細に解明して、引き続く箇所の説明に移ったならば、もっとはっきりするでしょう。私の主イエス・キリストには、一つの実体しかありません。その方の実体が一つであっても、救い主は、別の理解の下で医者となります。それは次のように書かれている通りです。「健康な人には医者は要らない。要るのは病気の人である[3]」と。また救い主は、別の理解の下では、すなわち諸々の非理性的なものを統御する限りで[4]、「牧者[5]」です。別の理解の下では、すなわち諸々の理性的なものを治める限りで、「王[6]」です。また別の理解では、「真のブドウの木[7]」です。なぜなら救い主に結ばれた人々は、極めて豊かな「実を結ぶ[8]」からであり、「ぶどう園の農夫である父[9]」によって耕され、一つの根に参与することによって、真のブドウの木の養分を受け取るからです。さらに別の理解では、救い主は「知恵[10]」です。別の理解では、「真理[11]」です。別の理解では、「義[12]」です。しかしながら救い主の実体は、一つなのです。ですから救い主においては、実体は一つであっても、その様々な名称の理解は実に多様であるのと同じように、地上の事柄は、実体において一つですが、その理解に応じて実に多様なのです。私たちは、比喩的解釈をしながら、しばしば次のように言いました。すなわちバビロニアは、諸々の悪徳によって常に混乱している地上の悩み事であり[13]、同様にエジプトは(私たちを)苦しめる地上の悩み事です。他方、カルデア人たちの地について言えば、彼らは、地上で起こるほとんどすべての事柄を諸々の星に帰し、私たちの罪であれ徳であれ、それらのほとんどすべてを、諸々の星の運動によって起こると主張していることから、私たちは、カルデア人たちの地は、そのような迷信に身を捧げている人たちであると言いました。従ってそれらの迷信を信頼する人は皆、カルデア人たちの地にいるのです。もしもあなた方の誰かが、占星術師たちの諸々の狂信に追従するなら、その人はカルデア人たちの地にいます。もしも誰かが誕生日を計算し、時間や秒の様々な推測を信用して、これこれ然々の配列を取る諸々の星は、人々を放蕩者、姦淫者、貞潔者、その他どのようなものにでもするという教えを信じるなら、その人はカルデア人たちの地にいます。それどころか、諸々の星の運行によってキリスト者になったと考えている人たちがいるしまつです。ともかくあなた方が、それらのことを好意的に考えたり、それらの話を信じたりするなら、あなた方は、カルデア人たちの地にいるのです。このように、カルデア人たちの地にいる人たちに対して脅迫を与える神は、死すべき者たちの間で起こるありとあらゆることは、諸々の星の動きや運命の必然性に依存していると主張して、系図や運命に身を捧げている人たちに対しても、霊的に脅迫を与えているのです。ところが神は、アブラハムがもっと善い事柄に向かうように促して、「私は、あなたをカルデア人たちの地から導き出す()である[14]」と言っています。確かに神は力ある方で、私たちがカルデア人たちの地から進み出るようにさせ、宇宙万物を管理し、私たちの命を支配するして、諸々の功績の特質に応じて[15]様々な出来事を割り当てる方は、神を除いて誰もいないことを信じさせることができるのです。実際、人々が言うところのファエトン星や唆されたガニュメデス星[16]などのきらきら光る何らかの星座が、私たちの関わる事柄の諸原因を含んでいるのではありません。一つの見方に従えば[17]、カルデア人たちの地にいる人は、上に述べた様々な推測を信じた人であり、また他の見方に従えば、「屋根の上に登って、星の軍勢を拝む[18]」人です。ともあれ私たちは、エレミア書の中に、「天の軍勢に生け贄を捧げる[19]」人たちに向けられた多くの脅迫を見出します。



[1] Jr.27,25.

[2] Differenti inter se notione Salvator plura habet vocabula, cum unus in subiacenti sit, varius autem in virtutibus; Cf.Hom.Jr.VIII, 2; XV,6; XVII,4:

[3] Mt.9,12.

[4] Cf.Hom.Jr.V,6.

[5] Jn.19,14.16; cf.Ez.34,12.

[6] Jn.18,37; オリゲネスにとって神のみ言葉(理性)としてのキリストは、諸々の理性的存在者を支配する。しかしこれはストア派の知恵の概念に由来するものと言える。ストア派にとって知恵は、万有を支配する王である。Cf.Von Arnim, SVF. III, 617-621.

[7] Jn.15,1.

[8] Jn.15,2.

[9] Jn.15,1.

[10] 1Co.1,30.

[11] Jn.14,6.

[12] 1Co.1,30.

[13] negotia terrena

[14] Cf.Gn.15,7.

[15] pro qualitatibus meritorum; これはヒエロニムスの訳だが、ルフィヌスが訳した『諸原理について』II,9,6を参照すると、それに相当する言葉はpro meriti dignitateになっている。おそらくもともとのギリシア語は、katVavxi,anであろう。

[16] 「ファエトン」(Phaeton):ギリシア神話の太陽神の子。「ガニュメデス」(Catamitus):ゼウスにさらわれ、神々の酌をしたトロイの美少年ガニュメデス(Ganymedes)

[17] iuxta unum argumentum

[18] So.1,5.

[19] Cf.Jr.19,13.

 

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