しかしいま、別の問題が提起されています。バビロニアにいる人々に、何が神によって命じられているでしょうか。こうあります。「あなた方はバビロニアのただ中から逃げよ[1]」。徐々にではありません。一歩一歩ではありません。あなた方は、速やかに、走って逃げよ(と言われています)。なぜならこれが逃げるということだからです。「あなた方はバビロニアのただ中から逃げよ」。あなた方が様々な悪徳の情念によって混乱された魂を持っているなら、そのようなあなた方全員に、この言葉は向けられています。もちろん私にも、同じことが命じられています、もしも私がいまだに精神の混乱状態の内にあり、したがって、バビロニアにいるならば。では神は、どのようなことを命じているのでしょうか。あなた方はバビロニアのただ中から出て行きなさいとは、神は言っていません――なぜならそれでは徐々に出て行くことになるかもしれないからです――。相ではなく、神は、「あなた方はバビロニアのただ中から逃げなさい」と言っています。私としては、「ただ中から」と言われる場合の、その言葉の理拠を探りたいと思います。言うまでもなく、ある人がバビロニアの中にいるとしても、その人がバビロニアの辺境に留まっているなら、その人はある意味でバビロニアの外にいるように見える事態もあり得ます。しかしバビロニアのただ中にいつというのはこれとは別の事態です。なぜならただ中とは、どの側面からも等しい距離にあるからです。そしてその意味で、(バビロニアのただ中にいる人は)その中心に、いわば動物の心のただ中に生活しているのです。実際、動物の中心が心であり、ルカによる福音によれば大地の中心は「大地の心[2]」と名付けられているのと同様に、エゼキエル書にも、ティルスは、「海の心に」置かれていると言われているように、私には思われます。そして今、罪人たちは、「バビロニアのただ中から」、すなわちその心から逃げなければなりません。したがって「あなた方はバビロニアのただ中から逃げなさい」というのは、あなた方がバビロニアのただ中を離れて、先ずその辺境にい始めなさい、その中心にいてはいけないということなのです。しかしもしこのことが、ある人には漠然と思えるなら、次のようにすればもっと明瞭になるでしょう。諸々の悪徳にはなはだしく浸っている人は、バビロニアのただ中の住人です。しかし少しずつ悪を捨て、自分の本性をより善き事柄に向けて、諸々の徳を所有し始めるというよりも、それらを望み始めた人は、バビロニアのただ中から逃げたとしても、まだバビロニアから離れていません。このような解釈については、聖書の文字は、神の知恵を欠いた「一画[3]」も持っていないと信じるのがよいでしょう。実際、人間である私に命令を下して、「あなたは、私の前に空手で現れてはならない[4]」と言われる方は、何ごとも空しく語らないように心がけているのです。その方の「満ち充ちた豊かさから受け取った[5]」預言者は、「満ち充ちた豊かさから」受け取られたことものを歌い上げました。それゆえ聖書は、「満ち充ちた豊かさ」の霊に息づいていて、預言書にも、律法書にも、福音書にも、使徒書にも、神的な威厳の「満ち充ちた豊かさ」から降ってこなかったものは何もないのです。今日でも聖書の中では、「満ち充ちた豊かさ」の言葉が息づいています。とはいえそれは、天の事柄を見ることのできる目、神的な事柄を聞くことのできる耳[6]、「満ち充ちた豊かさ」に属する事柄を感じることのできる鼻を持っている人に対して、息づいているのです[7]



[1] Jr.28,6 (51,6).

[2] Mt.12,40; ルカによる福音に、この言葉はない。オリゲネスの記憶違いであろう。

[3] unum apicem: Mt.5,18.

[4] Cf.Ex.23,15.

[5] Cf.Jn.1,16.

[6] Cf.Dt.29,3; Rm.11,8.

[7] 霊的感覚については、次書を参照せよ:Entretiens avec Héraclide, 16, 11 à 22, 12 (SC 67, p.88-89).

 

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