第三の命令があります。「あなた方は、その不正の中で、投げ捨てられるな[1]」。誰かがバビロニアの不正の中にいて、悔い改めをしなかったなら、その人は当然、投げ捨てられることになります。ところであなたは、どのようにして聖書が――ヘブライ語からギリシア語に翻訳されたにもかかわらず、それでも――可能な限りで、諸々の言葉の違いを明瞭に表現しているかご覧ください。実際(聖書は)、別の箇所で、「私は、主の家の中で捨てられることを選んだ[2]」と言っていて、「投げ捨てられる」とは言っていません。他方、目下の箇所では(聖書は)、あなた方はその不正の中で捨てられるなとは言っていません。むしろ「あなた方はその不正の中で投げ捨てられるな」と言っています。「投げ捨てられる」ことと「捨てる」こととはそれぞれ別物です。すなわち、軽蔑され無視されるものは、投げ捨てられるのではなく、捨てられます。これに対して、まったく救いの外にあって、至福とは無縁のものは、投げ捨てられます。神の書は、別の箇所でもこのことを明らかにして次のように言っています。「私の民の指導者たちは、彼らの最悪の意思のゆえに、彼らの歓喜の家から投げ捨てられる[3]。彼らの諸々の所有物は、彼らには役立たないだろう[4]」と。またあなた自身も、「投げ捨てる」と「捨てる」という言葉を聖書の中に見出したなら、それらの言葉を集めることができるでしょう。そしてそれらの言葉を比較して、より大きな自信をもって判断を下すことができるでしょう。なぜなら摂理の采配は[5]、たとえギリシア語への翻訳に際して、ギリシア語で尊ばれている言葉遣いを順守するように配慮することが余りなくても、聖書を注意深く探求する人たちにのために、意味ある事柄を提示し、それらの違いを判然と示すように配慮したのです[6]



[1] Jr.28,6 (51,6).

[2] Ps.83,11. なお「捨てる」の原語はabicio、「投げ捨てる」の原語はproicioである。

[3] Mi.2,9.

[4] Jr.12,13.

[5] dispensatio providentiae

[6] オリゲネスは、七十人訳聖書が、写字生たち書き誤りが見出されるにもかかわらず、霊感を受けたものであることを認めている。

 

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