「バビロニアは、主のみ手の内にある金の杯[1]」。バビロニアは、いつも金の杯であるわけではありません。それが応報の時を迎え、主のみ手の内に置かれると、それは、かつてヨブ記の中で言及された地となるでしょう[2]。バビロニアは、いつまでも主のみ手の内に収められているのではありません。それは、罰の時だけです。主が彼に、相応しい報いを返し始めるとき、彼は主のみ手の内にあるのです。

 「全地を酔わせる[3]」とあります。あのバビロニアの金の杯が、全地を酔わせたのです。しかしそのようにしてそれは、全地を酔わせたのでしょうか。もしもあなたがすべての人間は酔うことを考えれば、このことを容易に理解できるでしょう。私たちは怒りに酔います。私たちは悲しみに酔います。私たちは愛、様々な欲望、虚しい栄華に酔い痴れて、我を忘れます。(バビロニアが)どれほど多量の飲み物を調合したか、どれほど多くの酩酊の杯を差し出したか、どうして言う必要があるでしょうか。



[1] Jr.28,7.

[2] この一文のラテン語原文は、cum autem venerit ad vindictam et in manu Domini posita fuerit, tunc efficietur terra, quae quondam tacta est in Iob.なおP.Nautinは、この一文を誤訳であるとして、ギリシア語のカテーナ(註解選集)に保存された断片――o]tan evpi. th.n eckdi,khsin e;lqh|( evn ceiri. Kuri,ou gi,netai th/| a`yame,nh| pote. tou/ VIw,b(Jb.2,5)――をそのまま訳している:「それが応報の時を迎えると、それは、かつてヨブに触れた主のみ手の内に置かれるでしょう」(SC238, p.355, n1)。文脈上ノータンの判断は正しい。

[3] Jr.28,7.

 

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