フィロカリアに収録されたギリシア語原文

 断片T

 


 

 

 神のすべての賜物が死すべき存在をはるかに超えて偉大であるのと同様に、それらすべてに関する知恵を表す正確なみ言葉も、まさにそれらが(聖書に)書き記されるように配慮する神の許にあって(死すべき存在をはるかに超えて偉大です)。そのようなみ言葉は、もしもみ言葉の父が望むなら、知恵の把握に関する人間的な弱さの自覚と全き熱意とによって最高度に清められた魂の許に来るでしょう。しかしもしも誰かが、神の知恵とみ言葉――このみ言葉は「元に神と共にあり[1]」、それ自身神である――の言い表しがたさを弁えず、それら(の諸々の賜物)は神であるみ言葉に従って、しかも神の許にある知恵に従って探求され見出されるべきであることを知らずに[2]、性急に(それらの探求に)専念するなら、そのような人は、必ずや、神話と愚かな話と作り話に陥り、不敬虔の危険に身を委ねるでしょう。ですから、集会の書の中で、ソロモンによって言われている掟が思い起こされるべきです。彼はこう言っています。「あなたは、神のみ前で、せいて言葉を発してはならない。なぜなら神は上の方の天の内に、あなたは下の方の地上にいるからだ。それゆえ、あなたの言葉数を少なくしなさい[3]」と。



[1] Cf.Jn.1,1.

[2] オリゲネスは、フィロンやアレクサンドリアのクレメンスに従って、み言葉(ロゴス)は、万物を創造する際の原型となるすべてのイデアを内包していると考えている。み言葉は、これらのイデア(原型)を内包する限りで、知恵であり、それらのイデアを表出する限りでみ言葉である。Cf. Com.Jn.I, 19 (22), § 111.

[3] Qo.5,1; オリゲネスは、詩編注解第1巻の序文(PG 12, 1080 A)でも、Sextusの言葉――神について真理を語ることは危険を伴う――を引用しながら、神について不用意に語ることは無謀であると言っている。

 

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