フィロカリアに収録されたギリシア語原文

 断片U

 

エレミア書についての第三十九講話の中で、「主は、あなた方の邪悪さを前にして堪えることができなかった」について。

 


 

 

 あなたが聖書を読んで、その美しい意味の中で[1]、「躓きの石と醜聞の岩[2]」に突き当たったとしても、あなたは自分自身を責めなければなりません[3]。あなたは落胆して、この「躓きの石と醜聞の岩」は、「信じる者は、辱めを受けない[4]」という言葉を実現させるような数々の意味を含んでいないと思わないでください。先ずあなたは、信仰を持ってください。そうすればあなたは、醜聞と思われている事柄の下に、多くの聖なる利益を見出すでしょう。実際、もしも私たちが、「無益な言葉」を言ってはならない――なぜなら私たちは、裁きの日にそれについて申し開きをしなければならないから――という掟を受け取ったなら[5]、またもしも私たちが、私たちの口から出るすべての言葉を、それを語る私たちにおいても、それを聞く人たちにおいても、(有効に)働くように、力の限りを尽くして努力するなら、預言者たちについては、彼らの口から語られるすべての言葉は有効であると考えること以外、一体何を考えるべきでしょうか。実に、預言者たちによって語られるすべての言葉が、その言葉に相応しい働きをするとしても、驚くべきことではありません。それどころか私は、次のように考えています。神の諸々の言葉の中に書き記されている賞賛すべき文字はすべて(有効に)働く。そして聖書に書き記された「一点一画[6]」は、(聖書の)諸々の文字の力を扱う術を知っている人たちに対して、それ自身の(有効な)業を働かないはずがないと[7]



[1] noh,mati o;nti kalw/|) 聖書の意味や意図(no,hma)は、詰まるところキリストの思い(nou\/j tou/ Cristou/)の内容である。

[2] Cf.Rm.9,33; Is.8,14.

[3] 本段落は、フィロカリアのみから知られる『エレミア書講話』ギリシア語断片である。もちろんそのラテン語訳も存在しない。

[4] Rm.9,33; Is.28,16.

[5] Cf.Mt.12,36.

[6] ivw/ta e]n h; mi,a kerai,a;Mt.5,18.

[7] オリゲネスは、ストア派に従って、すべての言葉は、単なる因習的なしるしでなく、その言葉が名指す対象と本性的なつながりを持っており、その対象に効果的な働きを及ぼすと考えている。本分にあるように彼にとっては、聖書の言葉も同様の働きをする。Cf.Hom.Jos.XX,1 (Philocalia, XII, Robinson, p.63):諸々の呪文は、何かしら本性的な力をもっていて、それを受け取る人は、それと知らずに、その呪文の何らかの働きを、その呪文の発せられた音の本性に従って、受ける――その体や魂の損害においてであれ、それらの癒しにおいてであれ。いわんや聖書の中に含まれている言葉の発声は、すべての呪文にまして力があると、どうかあなたはお考えください; C.Celse I,6, 10-12; I, 22, 11-14 etc.

 

 

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